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'''宇都宮 豊綱'''(うつのみや とよつな、[[永正]]16年([[1519年]]) - [[天正]]13年([[1585年]]))は[[伊予国|伊予]]の[[戦国大名]][[伊予宇都宮氏]]最後の当主。娘は[[一条兼定]]妻、[[大野直之]]妻。
 
[[伊予宇都宮氏]]は[[宇都宮氏]]の分家の一つで、[[下野宇都宮氏]]と同族であり、伊予の[[喜多郡]]に勢力を築いた
 
[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の当主豊綱は[[大洲城]]城主である。たびたび隣当時の伊予内では道後方面を支配する[[守護]]の[[西園寺河野氏]]を攻め、[[西園寺実充宇和郡]]の[[西園寺公高|公高]]を討ち取に挟まれ武勇を見せたという。し位置にあり、国外らも[[1568年土佐国|土佐]]、毛利・河野連合軍との[[鳥坂峠の合戦一条氏]]にて大敗を喫した。その、[[豊国|豊後]]の[[大友氏]]毛利[[中国地に捕らえられ、]]の[[1585年大内氏]]、後に[[備後毛利氏]]で病没といった諸勢力が伊予への大きな関わりを持っていた
西園寺氏との戦いでは、[[西園寺実充]]の子[[西園寺公高|公高]]を討ち取る武勇を見せたという。その後、姻戚関係にあった一条氏と結んで河野氏との対立を深めたが、[[1568年]]に毛利氏の援軍を受けた河野氏との[[鳥坂峠の合戦]]にて大敗を喫した。その後、毛利方に捕らえられ、[[1585年]]に[[備後]]で病没。
戒名は、清源寺殿前遠州大守蓮翁華公大居士。位牌は清源寺に祀られている。