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== 生涯 ==
:[[1884年]]1月10日、[[群馬県]][[西群馬郡]]棟高村(現在の[[高崎市]])に生まれる。
:貧困の中で少年期を過ごす。
 
貧困の中で少年期を過ごし、:[[1899年]]に堤ヶ岡尋常小学校の代用教員となる。働きながら[[前橋市|前橋]]の聖マッテア教会の英語夜学校に通う。
:[[1902年]]には同教会の婦人[[宣教師]]ウォールの通訳兼秘書として[[青森市|青森]]に転任。
 
:[[1903年]]、[[東京都]][[築地]]の聖三一神学校に入学。卒業後はキリスト教[[日本聖公会]]の[[伝道師]]として[[秋田市|秋田]]、[[仙台市|仙台]]、[[水戸市|水戸]]などで布教活動に携わる。
[[1902年]]には同教会の婦人[[宣教師]]ウォールの通訳兼秘書として[[青森市|青森]]に転任。
::神学校在学中より詩や短歌の創作をはじめ、[[前田林外]]らの雑誌「白百合」に木暮流星の筆名で短歌を発表。[[1909年]]に[[人見東明]]から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう
 
:[[1909年]]、[[人見東明]]から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう。
[[1903年]]、[[東京都]][[築地]]の聖三一神学校に入学。卒業後はキリスト教[[日本聖公会]]の[[伝道師]]として[[秋田市|秋田]]、[[仙台市|仙台]]、[[水戸市|水戸]]などで布教活動に携わる。
:[[1913年]]7月、[[萩原朔太郎]]、[[室生犀星]]と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立。[[1914年]]3月には同社の機関誌「卓上噴水」創刊
 
:[[1914年]]3月、同社の機関誌「卓上噴水」創刊。
神学校在学中より詩や短歌の創作をはじめ、[[前田林外]]らの雑誌「白百合」に木暮流星の筆名で短歌を発表。[[1909年]]に[[人見東明]]から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう。
:[[1913年]]12月、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成。機関誌「風景」には萩原朔太郎、室生犀星の他、[[三木露風]]らが参加。
 
:[[1919年]]、結核のため伝道師を休職。
[[1913年]]7月、[[萩原朔太郎]]、[[室生犀星]]と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立。[[1914年]]3月には同社の機関誌「卓上噴水」創刊。
:[[1924年]]12月8日、[[茨城県]][[大洗町]]で死去、40歳。
 
:自然のあらゆるものに神を見いだす彼独特の神学は、しばしば熱狂的な信徒を怒らせ、[[異端]]として追放された事も数多くあったという。
[[1913年]]12月、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成。機関誌「風景」には萩原朔太郎、室生犀星の他、[[三木露風]]らが参加。
:[[萩原朔太郎]]は「彼自身の見たる如き、ちがつた意味での基督教を信じてゐたにちがひない」と、追悼文『山村暮鳥のこと』で述べている。
 
[[1919年]]、結核のため伝道師を休職。
 
[[1924年]]12月8日、[[茨城県]][[大洗町]]で死去、40歳。
 
自然のあらゆるものに神を見いだす彼独特の神学は、しばしば熱狂的な信徒を怒らせ、[[異端]]として追放された事も数多くあったという。
[[萩原朔太郎]]は「彼自身の見たる如き、ちがつた意味での基督教を信じてゐたにちがひない」と、追悼文『山村暮鳥のこと』で述べている。
 
== 著書 ==