「プリンスローズ」の版間の差分

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3歳時には[[フランス]]の[[凱旋門賞]]に遠征しパールキャップの3着に敗れたが、ちぐはぐなレースぶりで[[トウルビヨン (競走馬)|トウルビヨン]]等を抑えており、1,2着馬と実力差はなかったと言われている。翌年もう一度フランスに遠征し共和国大統領賞(現[[サンクルー大賞]])を制しついにベルギー外での勝利をものにした。そしてオステンド大賞連覇を達成したところで故障を発生し引退した。
 
[[種牡馬]]成績は当初ベルギーで供用されたためテールローズがドーヴィル大賞に勝った程度だったが、1938年にフランスに移動してからは短期間の内に[[プリンスキロ]](米名馬)、プリンスビオ([[プール・デッセ・デ・プーラン]]、仏[[リーディングサイアー]])、プリンスシュヴァリエ([[ジョッケクルブ賞]]、仏リーディングサイアー)を輩出した。1946年フランス、そしてベルギーのリーディングサイアーになっている。[[1944年]][[連合国]]の攻撃([[ノルマンディー上陸作戦]])に巻き込まれ、焼死した。奇しくも牧場の火事で死亡した祖父・[[プリンスパラタイン]]と同じ死に方であった。
 
{{競走馬血統表