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Hideki1976 (会話 | 投稿記録)
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'''三瓶 啓二'''(さんぺい けいじ、[[1954年]][[9月13日]] - )は、[[日本]]の[[空手家]](七段)。
 
[[福島県]][[双葉郡]][[富岡町]]出身。[[福島県立磐城高等学校]]・[[早稲田大学]][[第二文学部]]卒。
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[[1974年]]に[[極真会館]]の第6回[[極真会館#全日本選手権|全日本空手道選手権大会]]で8位入賞。
 
1979年11月に開催された第2回[[全世界空手道選手権大会]]では準決勝で[[ウリー・ウリアムス (格闘家)|ウィリー・ウィリアムス]]と対戦。ウィリーの度重なる掴みからの[[膝蹴り]]、三瓶を投げたことから、ウィリーの反則負けとなる。決勝に進出した三瓶は中村誠に敗れ、準優勝。なお、この決勝戦の組み合わせ・勝敗は同年5月に行われた第11回全日本選手権の顔合わせと全く同じであった。後に1984年に中村が引退するまで、両者の名前を取り三誠時代と呼ばれた。
 
[[1980年]]の第12回全日本選手権に決勝で中村と対戦。3度の延長の末、体重判定で初優勝した。さらにその後も2大会連続で優勝し、史上初の全日本3連覇を達成した(後に[[数見肇]]がこれに続き合計5度優勝)。[[1983年]]には[[大西靖人]]に敗れて7位入賞。[[1984年]]に第3回全世界選手権に出場するも、決勝で中村に再び敗れて準優勝。
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1984年の第16回全日本選手権は4回戦まで勝ち上がったが、ケガにより棄権。これが最後の大会出場となった。
 
[[1979年]][[8月]]に三瓶は[[極真会館#百人組手|百人組手]]に挑戦したが、49人で失敗した。しかし、1990年3月に再挑戦して、完遂した(途中複数回の数十分の休憩の存在、大山総裁の途中退席など、有効無効については賛否両論ある)。
 
[[1994年]]の大山倍達の死後、[[松井章圭]]の館長職に反対し、1995年に同調する支部と[[極真会館 松井派|松井派]]から分裂。極真会館支部長協議会派(現[[新極真会]])を作り、1997年から同派の代表に就任。[[2000年]]には[[緑健児]]に代表の座を譲った。現在は、新極真会相談役・福島支部長として後進の指導に当たっている。
 
== 主な戦績 ==
* [[1974年]]:第6回[[極真会館#全日本選手権|全日本空手道選手権大会]]  8位
* [[1976年]]:第8回全日本空手道選手権大会  5位
* [[1977年]]:第9回全日本空手道選手権大会  6位
* [[1978年]]:第10回全日本空手道選手権大会  準優勝
* [[1979年]]:第11回全日本空手道選手権大会  準優勝
* 1979年:第2回[[全世界空手道選手権大会]]  準優勝
* [[1980年]]:第12回全日本空手道選手権大会  優勝
* [[1981年]]:第13回全日本空手道選手権大会  優勝
* [[1982年]]:第14回全日本空手道選手権大会  優勝
* [[1983年]]:第15回全日本空手道選手権大会  7位
* [[1984年]]:第3回全世界空手道選手権大会  準優勝
 
== 関連項目 ==
* [[空手家一覧]]
 
{{DEFAULTSORT:さんへい けいし}}
[[Category:空手道選手]]
[[Category:1954年生]]
[[Category:福島県出身の人物]]
[[Category:1954年生]]