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佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。1924年のある時(初夏とされる)、佐伯はパリ郊外のオーヴェール・シュル・オワーズ([[フィンセント・ファン・ゴッホ|ゴッホ]]の終焉の地として知られる)に、[[フォーヴィスム]]の画家[[モーリス・ド・ヴラマンク]]を訪ねた。佐伯は持参した自作『裸婦』を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、強いショックを受けたとされる(その後、何度か彼の下に足を運んでいる)。事実、この頃から佐伯の画風は変化し始める。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともに[[モーリス・ユトリロ|ユトリロ]]の影響が明らかである。佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、彼の健康を案じた家族らの説得に応じ、1926年にいったん日本へ帰国した。パリでの友人である[[前田寛治]]、[[里見勝蔵]]、小島善太郎らと「1930年協会」を結成する。
 
2度目の滞仏はそれから間もない[[1927年]](昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。佐伯は旺盛に制作を続けていたが、1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。同年8月16日自殺未遂を経て入院中のセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。一切の食事を拒み、同年8月16日、衰弱した。
 
== 主な作品 ==