「郡山藩」の版間の差分

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その後、大和郡山は[[天領]]となっていたが、[[大坂の役]]直前には[[徳川家康]]が[[豊臣秀頼]]の大和郡山移封を要求したために[[徳川氏]]と[[豊臣氏]]が全面衝突するに至ったと言われている。この事があったためか、[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])の[[大坂夏の陣]]では豊臣軍が郡山城を攻撃して城を守っていた[[筒井定慶]]を討ち取った。なお定慶はかつての同城城主・筒井順慶の養子であり、定慶の死により中世以来の大和の名族[[筒井氏]]は滅亡する事になった。
 
戦後、[[三河国]][[刈谷藩]]より[[水野勝成]]が6万石で入って立藩する。しかし勝成は西国鎮衛の任をおびて元和5年([[1619年]])[[備後国]][[備後福山藩|福山藩]]へ移封立藩され、代わって[[大坂藩]]より[[松平忠明]]が12万石で入った。しかし忠明も[[寛永]]16年([[1639年]])[[播磨国]][[姫路藩]]へ移封される。
 
入れ替わりで姫路より、[[本多政勝]]が15万石で入る。ところがこのとき、後継者をめぐっての騒動が発生した。有名な[[九・六騒動]]である。[[寛永]]15年([[1638年]])末、[[本多政朝]]([[徳川四天王]]で有名な[[本多忠勝]]の孫)が病死した。政朝には[[本多政長]]という嫡子、及び[[本多政信]]という次男がいたが、この政長はまだ6歳という幼少であったため、後を継がせるわけにもいかなかった([[本多氏]]には家訓として幼君に家督を継がせてはならぬという掟があった)。そこで政朝は、従兄弟の政勝に家督を譲り、政長成長の暁には家督を政長に譲るようにと遺言を残していたのである。