「柳川一件」の版間の差分

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==事件の経緯==
[[1716世紀]]初頭、日本の豊臣政権による朝鮮出兵([[文禄・慶長の役]])が行われ、日朝、日明関係は断絶する。戦後、日本で[[徳川家康]]による[[江戸幕府]]が成立すると、徳川氏は[[李氏朝鮮]]、[[明]]との[[国交]]正常化交渉を開始する。日本と朝鮮の中間に位置する[[対馬藩]]は、その地理的条件から経済を[[朝鮮]]との交易に依存しており、対馬藩では朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。
 
朝鮮側からはまず朝鮮征伐の際の罪人を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の罪人の喉を水銀でつぶした上で差し出した(朝鮮征伐とはまったく無関係の罪人である)。これらの対馬藩の形振りを構わない努力の成果か、朝鮮では[[満州]]の[[女真族]]([[後金]])の勢力拡大で北方防備の必要もあり交渉には宥和的で、[[1605年]]、朝鮮は徳川政権からはじめに国書を通じることを要求。対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出する。書式などから偽書の疑いが生じるが、朝鮮は回答使を派遣し、対馬は幕府には通信使と偽り、使節は[[江戸城]]において2代将軍[[徳川秀忠]]と、[[駿府]]で[[大御所]]の家康と謁見する。対馬藩は回答使の返書も改竄し、[[1617年]]、[[1624年]]と三次に渡る交渉でもそれぞれに国書の偽造、改竄を行い、[[1609年]]には貿易協定である[[己酉約条]]を締結させる。