「沼田藩」の版間の差分

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第11代藩主となった[[土岐頼之]]は[[寛政の改革]]で有名な[[松平定信]]の孫であったが、幕府とはあまり関係を持たず、[[慶応]]3年([[1867年]])4月16日に家督を[[土岐頼知]]に譲って隠居し、翌年の[[戊辰戦争]]では[[桑名藩]]や[[会津藩]]と姻戚関係にありながら、新政府軍の沼田進駐を許して新政府に恭順し、三国峠の戦いで会津軍と戦った。[[明治]]2年([[1869年]])6月20日、頼知は[[版籍奉還]]して藩知事となり、明治4年([[1871年]])7月の[[廃藩置県]]で沼田藩は廃藩となり、[[沼田県]]、次いで[[群馬県]]となった。そして、[[土岐氏]]は[[明治]]17年([[1884年]])の[[華族令]]により、子爵に列せられたのである。
 
 
'''東田代村'''
 
1608年(慶長13年)、外様大名である真田信之によって開村。表向きは、徳川幕府の前に、石高を高めるための積極開墾策だった。開墾者のリーダーは、大塚与惣衛門、沼田藩の中堅武士だった。地元近郊の農民の協力を得て、すばやい開村となった。
 
その後、東田代村は、頼みの沼田藩の改易に遭遇しながらも、存続し、明治の初めの廃村まで約260年間続いた。そこには厳しい環境に打ち勝つ逞しい村人たちが根づき、言うに言えない人生のバトンタッチを繰り広げた。
 
[参考資料]''小説東田代村'' (沼田文学)
 
== 歴代藩主 ==