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'''パウサニアス'''(?-[[紀元前470年]])は、[[スパルタ]]の[[王族]]、[[将軍]]である。
 
パウサニアスは[[アナクサンドリデス2世]]の子[[クレオンブロトス (摂政)|クレオンブロトス]]の子で、[[レオニダス1世]]の甥に当たる。彼の子[[プレイストアナクス]]は[[プレイスタルコス]](レオニダスの子)の後を継いで[[スパルタ王]]になった。また、パウサニアスは幼いプレイタルコスの[[後見人]]を務めもした。
 
[[紀元前479年]]、パウサニアスは[[ギリシア]]連合軍を率いて第二次[[ペルシア戦争]]の[[プラタイアの戦い]]で[[マルドニオス]]率いる[[アケメネス朝|ペルシア]]軍を破った。
 
翌年、彼は[[ビュザンティオン]]を落とし、ビュザンティオンをペルシアの勢力圏から切り離した([[ビュザンティオン包囲戦 (紀元前478年)]])。戦いの後、彼は戦いで捕えたペルシア王[[クセルクセス1世]]の親族を脱獄したと見せかけて密かに送り返し、それと同時にペルシア王に書状を送った。その中で彼は、クセルクセスの娘を娶ってクセルクセスと婚姻関係を結びたいと申し出、そうすれば[[ギリシア]]をペルシアの支配下に置くと約束した([[コルネリウス・ネポス]]、『英雄伝』、パウサニアス、2)しかし、この目論見は露見し、パウサニアスは[[死刑]]を求刑されたが、[[罰金刑]]で済んだ。また、ビュザンティオンを落とした後の彼の[[僭主]]的な言動は同盟諸国の顰蹙を買い、同盟諸国は[[アテナイ]]になびき、このことによっても彼は裁判にかけられた
 
その後、またもや彼はペルシアとの内通があったことが発覚しスパルタ当局に逮捕されそうになった。そこで身の危険を彼は先んじて[[アテナ]]の神殿に逃げ込み、難を逃れようとした。しかしそこで[[監督官]]たちは神殿にパウサニアスを閉じ込め、[[餓]]させようとした。後になって彼が運び出された時には既に虫の息であり、すぐに死んだ
 
後になってパウサニアスが運び出されたときには既に虫の息であり、すぐに死んだ。
 
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