「筒井城」の版間の差分

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== 概要 ==
[[ファイル:Tutuij3.jpg|thumb|left|250px|筒井城跡地/現在は畑地になっている]]
筒井城は[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄橿原線|橿原線]][[筒井駅]]より東北一帯にあり、おおよそ南北400m、東西500mあり、[[平地]]部に築かれた中世の城としては比較的規模が大きく、筒井の集落を囲む形で筒井城があった。現在の筒井城跡は、[[宅地]]、[[畑地]]、[[水田]]となっているが、内[[曲輪]]と外曲輪を巡った[[堀]]跡が点在している。その堀に囲まれた城内には筒井氏とその家臣団の[[屋敷]]があった。また『筒井氏と筒井城』によると、筒井には[[市場]]あった確認されているがおり、筒井城の「市場も外堀内部にも設けられていた可能性が高いと思われる」と記載している。また筒井集落は、様々な場所で道が折れ曲がり直進できない構造になっている。これらの道や地割は筒井城が築かれた当時の様子をうかがい知る事が出来る。
 
== 沿革 ==
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[[ファイル:Tutuij5.jpg|thumb|left|250px|筒井城の案内看板]]
[[畠山氏]]の家督争いをめぐる大和国の諸士にも大きな影響を与える事になる。この争いに筒井順永は畠山政長に組みしていが、[[康正]]元年([[1455年]])7月2日に、畠山義就軍は筒井城を攻城し、筒井順永、[[筒井光宣]]親子は、防戦したが緒戦で敗北した。
 
しかし、筒井城そのものは頑強に持ちこたえた。この戦いで大和国に点在する[[西大寺]]や[[興福寺]]等の寺院は脅えさせ、同年8月10日は門を閉じてしまった。その事が呼び水になったのか、同日[[貝吹山城]]にいた[[越智伊予守]]が出軍して、筒井城の攻囲軍に加わった。この頃箸尾氏、片岡氏は筒井氏の[[与力]]になっていて、[[箸尾城]]、[[片岡城]]を守っていたが、畠山義就、越智伊予守連合軍は圧倒的多数によって、これらの城も攻城した。各所で激戦となったようだが、同年8月19日に筒井城、箸尾城、片岡城は落城した。筒井順永、筒井光宣親子は[[福住村 (奈良県)|福住郷]]へ落ち延びていった。
 
その後、[[管領]]細川勝元の仲介によって、畠山義就、越智伊予守連合軍と和睦し、[[長禄]]3年(1459年)6月1日筒井順永、筒井光宣親子は帰城することになり、筒井城にいた越智伊予守軍は城を去って行った。{{-}}
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と記載されている。その後筒井順尊は今だ勢力圏にあった[[福住城]]に逃げ去って行った。
 
その後、同年10月改めて畠山政長軍に合力した筒井順尊は、箸尾氏らと共に[[河内国]]に出軍したが敗れ大和国に引き返した。この敗戦がきっかけとなり「越智党」を勢いづけることになり、本格的に大和国を支配することになる。一方筒井順尊は[[長享]]3年([[1489年]])7月22日は京都で客死してしまい弟の[[筒井順盛]]が取り仕切ることになる。
=== 第四次筒井城の戦い ===
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[[ファイル:Sugataniji2.jpg|thumb|left|250px|菅田比売神社の本殿/筒井城内に建つ]]
畠山義就軍は、反対勢力にあった[[太田城(河内国)|太田城]]を文明15年([[1483年]])8月13日より攻城した。この時「越智党」に属していた古市氏は大いに武名を上げ、同年9月27日太田城は落城した。勢いに乗った古市軍は、その2日後同年9月29日に筒井城も攻城した。この動きに即応して、十市、箸尾両軍は援護に回るべく、筒井城の南側にある結崎に陣取った。古市軍は調略巡らし、箸尾軍は古市軍へ寝返り、筒井城は落城してしまった。
 
筒井順盛軍は東山内へ落ち延びていき、十市軍は藤井方面に逃げ去って行った。この戦いで周辺の村は焼かれてしまった。{{-}}
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松永久秀方に移った筒井城は[[多聞山城]]、[[信貴山城]]に次ぐ重要拠点して用いられた。これは[[郡山城 (大和国)|郡山城]]を攻める拠点として、また多聞山城と信貴山城のルートを確保するため繋ぎの城、[[支城]]であった。この時の松永久秀方の[[史料]]には筒井城の事を「[[平城]]」とだけ記されている。
 
その後[[元亀]]2年([[1571年]])8月、松永久秀軍と[[辰市城の合戦]]で筒井順慶軍が勝利すると、筒井順慶の力は侮れないと見たのか、[[明智光秀]]の仲介により織田信長に帰服を許し筒井城を回復した。{{和暦|1579}}筒井城を大改修しようと多聞山城の[[石垣]]を筒井城に移したが、織田信長の「大和一国破城命令」により[[廃城]]とし、居城を郡山城に移した。翌[[天正]]8年([[1580年]])8月17日の事であった。
 
=== 歴代城主 ===
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|[[ファイル:Tutuij7.jpg|thumb|堀跡/筒井集落の北側]]
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筒井集落の北側、南東側には現在でも外堀跡があり、また菅田比売神社の東側には幅約2mの内堀跡が良好に[[遺構]]が良好に残っている。また菅田比売神社の境内の南側には、若干高くなった部分があり土塁跡が指摘されている。この菅田比売神社は筒井城があった頃から、位置を違えず鎮座していると考えられている。
=== 北市場、南市場 ===
城内には[[曲輪]]だけが存在したわけではない。「シロ畠」の東側一帯に北市場、須浜池の南側に南市場という字名が残されている。これは城内を縦貫している吉野街道沿いに存在していたと考えられている。このような[[街道]]と[[市場]]を城内に取り込むという事は、それだけで規模が大きくなることを意味する。普通、街道は誰に対しても通行できるが、城内に街道がはしっていると通行人に対して何がしかの規制が加わる事に繋がると考えられている。また市場やその住宅が城内にある事で、[[領主]]の保護が受けられるが、反面敵からの攻撃を受けたさい、防備の薄い市場から攻撃されやすい。『経覚私要抄』によると第三次筒井城の戦いで筒井城が炎上したさいに、古市氏により市場から放火されたようである。{{-}}
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|[[ファイル:Ueno kaneiji01s1800.jpg|thumb|江戸城の鬼門除け/[[寛永寺]]の清水観音堂]]
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筒井城の東北隅で水堀が多折れに屈曲している。他でも屈曲している部分はあるが、連続して屈曲しているのはここだけである。このような曲輪の構造している理由として『筒井城総合調査報告書』では、
#防御を目的として意図的に設けられた
#元々の自然地形に沿って造られた
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が考えられるが、これらの可能性について検討している。
 
そもそも鬼門とは、[[中国]]で発展した地相術で、[[遣唐使]]によって日本に伝えられたが9世紀末に遣唐使が廃止になっからは、日本独自に変化し[[陰陽道]](風水)の一つ「鬼門を嫌い」を除ける[[風習]]があったと思われている。戦国時代の風水とは[[武士]]のものであって、陣取りや合戦の日時を風水によって決められる事もあった。
 
鬼門除けのひとつが「鬼門落し」で、建物や敷地の北東隅を欠くことで、北東隅を造らないようにしたもので、この「鬼門落し」で有名な施設は[[京都御所]]である。ほぼ[[正方形]]になっている禁裏であるが北東隅の塀だけが欠けている。また近世城郭では[[鹿児島城]]、[[日出城]]の鬼門櫓、[[江戸城]]の[[寛永寺]]や筋違門、[[彦根城]]の中堀における多折れ構造など中世の城郭でも数多くの「鬼門落し」が見られる。しかし、これらの例も風水のみではなく防備施設と兼ね備えている城々もあった。
 
そこで筒井城だが、五折れ構造になっているが、北東部には[[虎口]]が無く、隣接する東口、北口の両方の虎口にも横矢は掛からない為、防御のためではないと思われる。また、この部分には河川の氾濫を城内に及ぶのを防ぐため土塁を設けたとしても、多折れにする必要が無く地形に沿って丸くするか、あるいは直線に築くのが自然である。従って『筒井城総合調査報告書』では、防御や地形ではなく「風水のみに関わるもの」と結論づけている。{{-}}