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==来歴・人物==
[[東京都立千歳高等学校|府立第十二中]]から[[明治大学]]へ進学し、[[1950年]]に[[横浜ベイスターズ|大洋ホエールズ]]へ入団。[[1951年]]に[[中日ドラゴンズ|名古屋ドラゴンズ]]へ移籍。[[1952年]][[6月3日]]の大洋との[[ダブルヘッダー]]2試合目で1試合6盗塁のプロ野球記録をマーク。内容は二盗1、三盗3、本盗2だった。この記録は[[1989年]][[10月16日]]の中日戦で[[広島東洋カープ]]の[[正田耕三]]が同じく1試合6盗塁をマークしたのみで現在もプロ野球タイ記録として残っている。52年は最終的に98試合に出場し、外野のレギュラーとしても活躍した。[[1954年]]には中日のリーグ初優勝のメンバーとなった。[[1957年]]に現役[[引退]]。その後、社会人野球マツダの野球部監督、スポーツ記者、中日ドラゴンズスカウトを勤めた。[[2005年]][[7月5日]]に急性汎発性腹膜炎のため79歳で亡くなった。
 
==背番号==