「藤間勘右衛門」の版間の差分

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== 初代 ==
'''藤間 勘右衛門'''([[文化 (元号)|文化]]10年([[1813年]]) - [[嘉永]]4年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1851年]][[89127日]])) 初世藤間流勘右衛門家元。
 
父は[[長唄]]の名手・富士田勘右衞門(後の3代目[[大薩摩文太夫]])。[[江戸]]の生まれ
 
6歳で4代目[[藤間勘兵衛]]の門下となる。一時[[市川團十郎 (7代目)|7代目市川團十郎]]の門下で市川金太郎を名乗る。[[1843年]]に舞踊に専念し津打治三郎を名乗る。[[1845年]]に勘右衛門と改名。
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初代の実子。湯島天神町の生まれ、最初は歌舞伎役者の[[市川團十郎 (7代目)|7代目市川團十郎]]の門下。初名を藤間金太郎。12歳で父が他界し[[藤間勘十郎]]の門下で19歳で2代目勘右衛門を襲名。一時[[1867年]]に[[西川扇蔵]]の養子となり6代目西川扇蔵を名乗るも[[明治4年]]に勘右衛門に戻る。花柳流の[[花柳壽輔 (初世)|初代花柳壽輔]]が[[市川團十郎 (9代目)|9代目市川團十郎]]と対立し決別、その後を團十郎から迎え入れられ引き立てられる。團十郎とのコンビで「鏡獅子」「素襖落」などを振り付け、他にも[[坪内逍遥]]の新歌舞伎「お夏狂乱」等も手がけ一時代を築いた。今日にもその踊りは受け継がれている。「浜町の藤間」「大藤間」と言われる。晩年は藤間勘翁を名乗る。
 
生年月日は[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]とも。
 
養子が3代目勘右衛門。
 
== 3代目 ==
 
[[松本幸四郎 (7代目)]]項参照。
 
== 4代目 ==
 
[[尾上松緑 (2代目)]]項参照。
 
== 5代目 ==
 
[[尾上辰之助 (初代)]]項参照。
 
== 6代目 ==
 
[[尾上松緑 (4代目)]]項参照。