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[[第一次世界大戦]]時は、南部軍の師団を指揮、[[1916年]]には[[中将]]に進級した。[[1917年]]夏、[[ロシア革命]]後に旧ロシア帝国領を統治していた[[臨時政府_(ロシア)|臨時政府]]に対する[[コルニーロフ武装蜂起|コルニーロフの反乱]]に参加したが、反乱が失敗したことにより逮捕された。
 
しかし、デニーキンはこの年12月には脱走し、[[ドン川|ドン]]地方で[[義勇軍_(白軍)|義勇軍]](白軍、[[白衛軍]]の一派)を組織、これ以降[[赤軍]]に対する強力な戦線を張った。一時は[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の支援も取り付け、[[ボリシェヴィキ|ボリシェヴィキー]]勢力の首府[[モスクワ]]をも窺う勢いであった。[[1919年]][[8月31日]]から10月までの期間、[[シモン・ペトリューラ]]の[[ィレクトーリヤ]]にかわって[[ウクライナ]]の首府[[キエフ]]を支配し、10月に赤軍に奪回されたあともすぐに取り戻し、同年[[12月16日]]に再び赤軍に奪われるまで支配を続けた。
 
しかしながら、典型的な帝政ロシア軍人であったデニーキンはウクライナや[[ポーランド]]の独自性を完全に否定し、それらの勢力との連合を拒んだため、結局は赤軍により各勢力は個別撃破された。[[1919年]]には[[ドン軍]]との合同により[[南ロシア軍]]を組織するもののときすでに遅く、白軍の劣勢は免れないものとなっていた。デニーキンは[[1920年]]春に[[イギリス海軍]]の[[戦艦]]「[[マールバラ_(戦艦)|マールバラ]]」に乗り国外へ脱出、各地を経て[[パリ]]に亡命した。