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人間に本能があるかどうかはながらく議論の対象であった。しかし前述の通り人間に本能があるかどうかは「本能」の定義次第である。一般的に人間に本能行動はほとんど無いかわずかであると見なされている。また[[社会学]]、[[哲学]]、心理学の一部では本能を「ある種の全ての個体に見られる複雑な行動パターンで、生まれつき持っており、変更がきかない」と定義する<ref> Sociology: An Introduction - Robertson, Ian; Worth Publishers, 1989</ref>。この定義の元では性欲や餓えも変更がきくために、本能とは言えないと主張される。極端な[[行動主義]]や[[タブラ・ラサ|環境決定論]]においてはあらゆる種類の「本能」が否定され、行動はすべて学習の結果として説明される。
 
一方で[[認知科学]]、人間生物学(特に[[社会生物学]]や[[人間行動生態学]]、[[行動遺伝学]])などの分野では人間に本能を認めるただし本能という語ではなく、生得的、遺伝的基盤がある、生物学的基盤がある、[[心使モジュール性|モジュール]]を持つ、と言うような表現をいるのが常は避けられ例であ。これらの分野で用いられる「本能」は3,4,8の意味のいずれかである。この場合、本能と見なされることが多い性質には次のような物がある:[[言語獲得|言語の獲得]]、[[利他主義]]や[[嫌悪]]などの感情、[[ウェスターマーク効果]]、[[学習バイアス]](例えば甘い物はすみやかに好むようになるが、苦みや渋みは好みとなるのに時間がかかる)など。また[[類人猿]]と人間では[[公正]]さの感覚も本能的であると考えられている。
 
やや特殊ながら、ほとんど全人類に共通の好意的な挨拶を紹介しておく。まず目を見つめ、眉を少し上げ、数秒そのままで、それから頷くというものである。これは、大人が赤ん坊を見て、あやそうとするときには自然に現れる。[[ヒューマン・ユニバーサルズ]]も参照のこと
 
=== 自然主義的誤謬 ===