「ジョルジュ・ギヌメール」の版間の差分

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== 戦歴 ==
[[1914年]]航空隊に入隊。当初は整備兵として配属された。
[[1915年]]6月、第3飛行中隊(MS.3)に配属される。MSの略号は、当時この部隊が[[モラーヌ・ソルニエ]]機装備であったことを示す。ギンヌメールは翌月、[[モラーヌ・ソルニエ L]]型機で最初の戦果を挙げた。この時ギンヌメールが搭乗していた機体は、マケドニア戦線に転属した飛行士シャルル・ボナールが以前に使っていたもので、ボナールは機体に自らの使用機であることを示すため"Vieux Charles"(“老シャルル”)と書き入れていた。"Vieux"とあるのは、ボナールより若い同名の整備員がいたためと言われる。ギンヌメールは験を担ぎ、その後、機体を乗り換えてもこの名と、機番「2」を記入し続けた。
 
1915年12月、部隊は[[ニューポール]]機に機種改変され、N.3と改称された(当初[[ニューポール10]]、後に[[ニューポール 11|11]]、[[ニューポール 17|17]])。より運動性の優れた戦闘機に乗り換えたことでギンヌメールはスコアを伸ばし、[[1916年]]2月に撃墜数が5機とエースになり、1916年末には撃墜数が25機になった。1916年に、ギンヌメールに最新鋭機[[S.VII (航空機)|スパッドS.VII]]の初期量産機が優先的に与えられた。後に部隊全体も[[スパッド]]機装備となり、Spa.3となった。
[[Image:SPAD VII Guynemer Le Bourget 01.JPG|thumb|left|250px|ル・ブールジェに展示されている、ギンヌメールが使用した数機のスパッドS.VIIのうちの1機。排気管の下に"Vieux Charles"の名、胴体に部隊章のコウノトリが確認できる]]
 
[[1917年]]には大尉になり、コウノトリ部隊の指揮者になった。1917年7月末にはフランスで最初の50機を撃墜したパイロットになった。
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常に連合国トップエースであったギンヌメールにはすでに与えられる勲章もなくなり、戦死をおそれた軍部は再三後方勤務を薦めたが、彼は軍人である父に「全力を尽くしていないのなら何もしないのと同じです」ときっぱり断った。
 
1917年7月11日朝、部下1機を連れ哨戒飛行中、単機で飛行するドイツ軍偵察機を視認し追撃するが、上空から数機のドイツ戦闘機に襲い掛かられた。部下はからくも逃れたが、その時には空中にギンヌメール機は見当たらず、そしてついに基地にも帰還しなかった。最後の乗機は[[S.XIII (航空機)|スパッドS.XIII]]、シリアルS.504、機番2であったとされる。ドイツでは、ギンヌメール機を撃墜したのは第3中隊(Jasta 3)所属のクルト・ヴィッセマン中尉であったと発表された。ギンヌメール機は皮肉にも墓場に墜落、ドイツ軍により死亡が確認されたが、イギリス軍の砲撃で遺体を運び出せず、砲撃後は何もかもが消えていたとも言われる。国民的人気のあったギンヌメールの喪失について、当時フランスでは「ギヌメールはあまりにも高く飛びすぎて降りてこれなくなった」と語られた。
 
ギヌメールはプライドが高く気性の激しい性格で正面攻撃を得意とし、撃墜数54機はこの時点で連合軍トップエースであり、人気者だった。冷静沈着な精密機械と評された[[ルネ・フォンク]](最終的には彼が連合軍トップエースとなった。ギヌメール戦死の知らせを聞くと仇討ちに出撃、その日撃墜した機体が偶然にもギヌメールを撃墜した機体だった)も撃墜数は超えても人気を超える事はできなかった。
 
== 交友関係 ==