削除された内容 追加された内容
R28Bot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる: テンプレートのメンテナンス (統合)
編集の要約なし
1行目:
{{Mergefrom|波多臣|波多氏|date=平成21年1月|date=2009年1月}}
{{otheruses|松浦党の一族|武内宿禰の末裔|波多臣|}}
'''波多'''(はた)氏は、[[平安時代]]末期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期まで[[肥前国|肥前]]松浦地方で活躍した上[[松浦党]]の最大の一族。
 
[[嵯峨源氏]]の流れをくむ[[渡辺党]][[松浦氏]]の一統([[松浦党]])で、[[渡辺綱]]の曽孫にあたる[[松浦久]]の二男の松浦持が波多の地に移り[[康和]]四年([[1102年]])から波多持と波多姓を名乗り、[[岸岳城]]を本拠として発展した。ただし、[[佐志氏]]の一派から波多姓の人物が分かれた形跡も存在し、その実際の系譜は不明瞭なものとなっている
'''波多'''(はた)氏は、[[平安時代]]末期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期まで[[肥前]]松浦地方で活躍した上[[松浦党]]の最大の一族。
 
一時は[[壱岐国|壱岐]]に進出し壱岐守護を称するなど全盛期を迎えたが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、[[波多盛]]の死後にお家騒動が勃発し、[[有馬氏]]や[[龍造寺氏]]、そして同じ松浦党の一派下松浦党である[[松浦氏]]の干渉にあい、それに従属するようになる。
[[嵯峨源氏]]の流れをくむ[[渡辺党]][[松浦氏]]の一統で、[[渡辺綱]]の曽孫にあたる[[松浦久]]の二男の松浦持が[[康和]]四年([[1102年]])から波多持と波多姓を名乗り、[[岸岳城]]を本拠として発展した。
 
後年、子孫の[[波多親]](肥前松浦8万石)は、[[有馬氏]]からの養子であるが、有馬氏が衰退すると[[龍造寺隆信]]へ従属し、その勢力を保持した。龍造寺隆信が戦死すると[[薩摩国|薩摩]]より九州一円を制覇しつつあった[[島津氏]]よりとなり、それを討つために豊臣秀吉が兵を九州に送った際も([[九州征伐]])、秀吉への臣従の姿勢をはっきりとせず改易されかかる。その際は[[鍋島直茂]][のとりなしにより許されたが、[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]に際しては[[鍋島直茂]]に従ってうよう命ぜられ出陣したが、それに反発し独自行動をとったため、[[文禄]]2年([[1593年]])に[[豊臣秀吉]]から知行を没収され波多氏は滅亡したと思われているが、実は子孫は未だ健在である。
 
別の波多氏とよばれる一族としては別に、'''大和国高市郡波多郷'''に住むより古くから[[孝元天皇]]の曾孫[[武内宿禰]]の子、波多八代宿禰=羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする[[波多臣]]一族が住んで
 
== 関連項目 ==
*[[松浦党]]
*[[佐志氏]]
*[[有浦氏]]
*[[鶴田氏]]
*[[日高氏]]
*[[有馬氏]]
*[[松浦氏]]
*[[龍造寺氏]]
*[[島津氏]]
*[[豊臣氏]]
 
== 外部リンク ==
*[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hata_k.html 武家家伝_波多氏]
*[http://www.ikishi.sakura.ne.jp/hatashinryaku.html 壱岐はなぜ長崎県になの?]
 
[[Category:松浦氏|*はたし]]