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'''秦 徳純'''(しん とくじゅん、[[簡体字]]:'''{{lang|zh|秦德纯}}'''、[[繁体字]]:'''{{lang|zh-tw|秦德純}}'''、[[ピン音|ピンイン]]:{{lang|zh|Qín Déchún}}、[[1893年]] - [[1963年]]9月)は、[[中国]]の[[中華民国]]時代の軍人。字は'''紹文'''。[[山東省]][[臨沂市|沂水県]]の人。[[北京政府]]、[[直隷派]]、[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]、[[国民政府]]([[国民革命軍]])の軍人である。
 
== 事跡 ==
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=== 国民革命軍への帰順 ===
民国16年([[1927年]])6月、[[馮玉祥]]率いる[[国民革命軍]]第2集団軍(旧国民軍)が河南入りすると、秦徳純は後ろ盾を失ったため、馮に降伏してその配下となった。これにより、秦は第2集団軍第2方面軍副総指揮兼第23軍軍長に任命され、まもなく第14軍軍長兼第2集団軍総司令部副参謀長に昇進した。民国17年([[1928年]])6月、馮玉祥配下の[[石敬亭]]、[[孫良誠]]が相次いで山東省政府主席に就任すると、秦はこの2人の下で省政府委員を務めた。
 
北伐完了後の馮玉祥による反[[蒋介石]]戦争では、秦徳純は国民軍副総参謀長、第2方面軍参謀長などを歴任した。反蒋介石戦争敗北後は、[[宋哲元]]と共に[[張学良]]に降伏し、第29軍軍長となった宋の下で総参議を務めた。民国21年([[1932年]])秋、宋が[[チャハル]](察哈爾)省政府主席に就任すると、秦は省政府民政庁長兼委員を務めた。民国22年([[1933年]])春、張が下野すると、蒋の腹心である[[何応欽]]らが主管する軍事委員会北平分会が設置され、秦はその委員に任命された。