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[[1924年]]帰国し、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第二部第六課地誌班長と陸大教官を兼任。傾倒する孫文と国民党の将来性に着目し、国民党主体の第四革命の到来を予言する[[論文]]や著作を発表。しかし当時の陸軍内外では孫文の評価は非常に低かったため、佐々木は国民党にかぶれたと冷笑され「ササキイ、革命はまだかね」と揶揄されるなど批判を浴びた。[[大川周明]]が主宰する神武会の講演で、佐々木が「孫文先生」と言ったところ、大川が孫文に「先生」を付けるとはもっての外だと批判、言い争いとなったのをきっかけに仲良くなり、その後大川の関係する行地社などから佐々木の著書が多数出たという逸話が残っている。[[1924年]]、病床にあった孫文を見舞う。翌[[1925年]]、孫文は亡くなるが、佐々木は「国民党は一層破壊力を逞しくする」と予言。事態はやがてこの不気味な予言の方向に進んでいった。何度も中国に出張し[[1926年]]9月、中佐に昇進、[[北京市|北京]]駐在日本公使館附武官補佐官となる。前任者は[[板垣征四郎]]、後任が[[土肥原賢二]]で武官は[[本庄繁]]。軍閥を嫌う佐々木は当時、安国軍総司令と称して北京に君臨していた[[張作霖]]の元に顕著に出向く本庄を嫌い、このため張作霖の軍事顧問たちも佐々木を嫌った。
 
その頃、[[蒋介石]]が総司令になった[[国民革命軍]]が[[北伐#国民党による北伐軍|北伐]]を進攻し九江、漢口を攻略。翌[[1927年]]4月に刊行した『南方革命勢力の実相と其批判』の中で佐々木は革命軍による中国統一の期待を記したが、旧世代の支那通たちは、これに悲観的な見通しを述べた。このため佐々木は新しい世代の支那通とも呼ばれた。[[1927年]]3月、[[南京事件 (1927年)|南京事件]]の直後に[[南京市|南京]]に進出した国民党のつながりを期待され南京駐在参本附仰付となった。この人事は参謀本部情報部長・[[松井石根]]の弟・[[松井七夫]]の画策とも言われる。陸軍は南京事件の責任を過激分子としての共産派に帰すとともに、穏健派としての蒋介石との提携を模索し始めていた。南京事件で佐々木は破壊力を増す革命勢力を憂慮、松井石根から蒋介石に食い入って軍事顧問になれと助言もされたが、かえって利用されるだけと拒否。この間、上海に拠点を置き南京を常駐したのはこの年の暮れのことだった。
 
[[1928年]]1月、蒋介石が国民革命軍総司令に復職。佐々木は総司令部に従軍を申し入れ許可され4月、北伐が再開され[[北伐#国民党による北伐軍|北伐軍]]と共に従軍した。総司令部は日本側との衝突が起こりそうになった場合の連絡役を佐々木に期待した。前年とこの年と二度に渡る日本軍の[[山東出兵]]で、中国側の敵愾心が高まっており同年5月、日本軍と国民革命軍が武力衝突([[済南事件]])。佐々木は両軍の使者となって停戦の折衝にあたるが途中、中国兵に捕らえられ暴兵と暴民に[[リンチ]]される。蒋介石の使いに何とか救出されたが、佐々木の中国観に大きな変化が起こったとされる。状況報告のため帰国。佐々木の発言が革命軍の肩を持つような記事に捏造され新聞記事で出たり、暴行を受けながら、おめおめ生きて帰ってきたと卑怯者、売国奴あつかいをされた。このため転地療養を命じられるが、[[田代皖一郎]]支那課長から戻って欲しいと要請を受け南京に戻る。しかしこれ以降、中国側が佐々木との接触を断った。蒋介石は済南で佐々木を見舞った時、日本軍の行動に強い不信の念を表明し、日本軍との提携の望みはなくなったと語ったという。佐々木は済南事件の処理を巡って中国側が「非行」の責任を回避しようとするならば、日本として武力に訴えて膺懲する以外にない、と強硬論を具申したが交渉から排除された。こうして日本では革命軍のまわし者であるかのように中傷され、中国では不信きわまりない日本陸軍のまわし者として無視され冷遇された。目覚めた中国は必ずしも自身の期待に答えてはくれず。その失望から、中国への強硬論を唱えるに至った。