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'''開拓使'''(かいたくし)は、北方開拓のために[[明治]]2年 ([[1869年]]) )[[7月8日]]から明治15年([[1882年]]) )[[2月8日]]まで置かれた官庁である。
 
[[樺太開拓使]]が置かれた明治3年 ([[1870年]]) )[[2月13日]]から明治4年 ([[1871年]]) )[[8月7日]]までは、'''北海道開拓使'''と称した。開拓使設置前の北海道行政は[[箱館府]](箱館県)が行なっていた。開拓使の廃止後は[[札幌県]]、[[函館県]]、[[根室県]]が設立された。
[[Image:KaitakushiSapporoHonchosha1873-restoration.jpg|thumb|240px|1873-1879年の開拓使本庁舎(復元)]]
 
==歴史==
===鍋島直正~東久世通禧の時代===
開拓使は、省と同格の中央官庁の1つである。北方[[開拓]]を重視する政府の姿勢の表れだが、初めの数年は力不足で、内実が伴いはじめるのは明治4年 ([[1871(1871]]) からであった。開拓使の初代長官には、旧幕時代から北方の重要性を説いていた[[佐賀藩]]主[[鍋島直正]]が就任したが、彼は実務にとりかかる前に辞任した。[[東久世通禧]]が後を引き継ぎ、部下の判官とともに明治2年 ([[1869(1869]]) 9)9月に北海道に向かった。
 
箱館府が置かれていた箱館([[函館市|函館]])は旧・[[蝦夷地]]の人口・産業の中心であったが、位置が南に偏りすぎているため、北海道の中央部に本庁を設けることになっていた。長官の赴任に同行した佐賀藩士[[島義勇]]首席判官は、[[銭函]](現[[小樽市]]銭函)に開拓使仮役所を開設し、[[札幌市|札幌]]で市街の設計と庁舎の建設を始めた。のちに「北海道開拓の父」とも呼ばれた島の計画は壮大であったが、厳冬の中で予算を急激に消費したこと等が理由で長官と対立し、志半ばで解任された。代わって赴いた[[岩村通俊]]判官の下で札幌の建設が続けられ、明治4年 (1871(1871) 5)5月に開拓使庁が札幌に移った。
 
開拓使の発足当時、中央政府の財政基盤は弱く、北海道の全域を統治する余力はなかった。そのため諸藩や団体・個人に呼びかけて[[北海道の分領支配|北海道を分領]]し開拓させた。分領支配の実績は各地各様であったが、経験不足から低調な所が多かった。明治4年(1871年)8)[[8月20日]]に分領支配は廃止され、開拓使が館県(旧[[松前藩]]領)を除く全域を直轄統治することになった。
 
===黒田清隆の時代===
[[樺太]]では、[[箱館府]]の時代から[[岡本監輔]]が統治の任にあたっていた。[[兵士]]と[[移民]]を送りこむ[[ロシア]]に対し、日本が劣勢に立たされていることに強い危機感を抱いた政府は、明治3年([[1870(1870]])に[[樺太開拓使]]を設置し、[[黒田清隆]]を開拓使次官にして樺太専務を命じた。樺太を視察した黒田は「現状では樺太は3年もたない」という深刻な報告を行ない、対抗する国力を充実させるために北海道の開拓に力を入れるべきだと論じた。彼の建議に従い、明治4年(1871年)[[1871年]])88月19日]]に10年間1000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる[[開拓使十年計画]]が決定された。
 
明治4年(1871年)10月に東久世長官が辞職すると、黒田が次官のまま、東京にあって開拓使の長となった。明治5年([[1872年]]10)10月、[[松前藩#館県|旧館県]]であった[[渡島国]]に属する[[福島郡]]・[[津軽郡 (渡島国)|津軽郡]]・[[檜山郡]]・[[爾志郡]]の4郡が[[青森県#近代以降の年表|青森県]]から開拓使に移管。後、黒田は明治7年([[1874年]])に長官となったが、北海道に赴任せずに東京から指示を出す態勢をとった。黒田は米国人[[ホーレス・ケプロン]]らの[[お雇い外国人|御雇外国人]]を招いて政策の助言と技術の伝習を行わせた。開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進したが、広大な範囲でなおも全てを完遂するには不足であり、[[測量]]・[[道路]]などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。
 
黒田は、北海道の開拓に難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという考えを抱いていた。この方針に反対した岡本の辞任もあって、樺太の開拓は進展しなかった。結局、明治8年([[1875年]])5月に[[樺太・千島交換条約]]によって日本は樺太を手放した。交換の際、日本は樺太の[[アイヌ]]民族を北海道に強制移住させた。札幌本庁を統括していた[[松本十郎_(開拓使大判官)|松本十郎]]は、強制移住に反対して辞任した。松本の辞職で初期の開拓使の高官はほぼいなくなり、かわって黒田を頂点にした[[薩摩国|薩摩]][[藩閥政治|藩閥]]が開拓使を支配した。
 
十年計画の満期が近くなった明治14年([[1881年]])に、黒田は開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設・設備を安値で払い下げることにした。これを探知した新聞社は、払い下げの主役を薩摩の政商[[五代友厚]]だと考えて攻撃した。これが、明治時代最大級の[[疑獄]]事件である[[開拓使官有物払下げ事件]]である。開拓使は翌明治15年 ([[1882年]])に廃止され、北海道は[[函館県]]、[[札幌県]]、[[根室県]]に分けられた。
 
==各分野の政策と開拓使時代の北海道==
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開拓使貫属は、開拓使に所属するが[[士族]]の身分を失わずに開拓に従事する者であり、身分が保障されるうえ移住に関しても資金調達の心配が無くなる身分である。
 
旧[[盛岡藩#他地域との関わり|白石藩]]は、[[表高]]1万3千石([[内高|実高]]1万8千石)であったが、家臣7500名を養うには決して豊かとは言えない。まし加えて、明治2年(1869年)の大凶作により、[[一揆]]の気配までが高くなっていた。
 
のような中、北海道移住への気運が高まるのであるが、その資金については自費移住ということであり、それを賄うだけの資金調達ができるはずもなかった。
 
明治4年(1871年)2月、[[角田市|角田県]]知事、大参事は、旧白石藩士の窮状を理解し、開拓使に協議のうえ政府に具申。[[3月17日]]、[[太政官]]から[[片倉氏|片倉邦憲]]家来、角田県に在留していた者600名に対し'''北海道移住開拓使貫属'''を命じた。
 
===北海道移民===
開拓使による最初の移民政策は、[[政府]]募集の移民を送り込んで定住させるというものであった。また、新規移民に米、銭、農具などを与える移民扶助の規定を設けた。だが掛かる費用のわり対し効果が薄かったため、明治5年(1872年)には募集や新規移民優遇をやめ、既に定着した移民への援助に切り替えた。明治6年(1873([[1873]])に、政府は北方警備と開拓とを兼任させる[[屯田兵]]制を開始した。初期の移民には[[東北地方]]からの士族移民の比重が大きかった。後には人口が多い[[平民]]が主流になり、その出身地は東北と[[北陸地方|北陸]]とが多くなった。
 
==開拓使の長官と次官==
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|明治2年(1869年)8月25日 - 9月13日||align="center" rowspan=3|東久世通禧
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|明治2年(1869年)9月13日 - 明治3年([[1870(1870]])5月9日||align="center"|-
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|明治3年(1870年)5月9日 - 明治4年([[1871(1871]])10月||align="center" rowspan=2|[[黒田清隆]]
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|明治4年(1871年)10月 - 明治7年([[1874(1874]])8月||align="center"|-
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|明治7年(1874年)8月 - 明治15年([[1882(1882]])2月||align="center"|黒田清隆||align="center"|-
|-
|明治15年(1882年)2月 - 明治15年(1882(1882年)3月||align="center"|[[西郷従道]]||align="center"|-
|}
 
==開拓使の庁とその主任官==
 
===開拓使出張所の時代===
明治2年(1869年) - 明治4年(1871年)5月
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:開拓次官、開拓長官:黒田清隆
 
== 徽章 ==
開拓使の徽章は赤い五稜の北辰星([[北極星]])である。この徽章は開拓使に関係するあらゆるところに掲示された。現在北海道に残る開拓使時代の建物には赤い五稜星があしらわれている。[[札幌市時計台]](旧[[札幌農学校]]演武場)などがその例である。また、[[サッポロビール]]のマークは現在は金色の星となっているが、もともとは開拓使麦酒醸造所の伝統を引き継ぐ赤い星だった。