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'''藤原 雅長'''(ふじわら の まさなが、[[久安]]元年([[1145年]]) - [[建久]]7年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]([[1196年]][[8月21日]]))は、[[平安時代]]後期の[[公卿]]。[[藤原雅教]]の長男。母は[[藤原顕能]]の娘。同母兄弟に駿河守藤原俊教・右少将藤原公房がおり、また姉妹に[[藤原実長]]室がいる。子に[[室町家信]]がいる。
 
久安4年([[1148年]])に[[従五位下]]に叙される。[[保元]]2年([[1157年]])[[従五位上]][[民部権大輔]]に任ぜられる。保元4年([[1158年]])に[[正五位下]]に進み、[[平治]]元年([[1159年]])に[[駿河国|駿河]][[国司|守]]に任ぜられるが、[[永暦 (日本)|永暦]]元年([[1160年]])に[[藤原隆信]]とともに[[院昇殿]]停止・[[解官]]の処分を受けた。[[応保]]3年([[1163年]])に[[左近衛少将]]に任ぜられ、[[嘉応]]3年([[1171年]])に[[左近衛中将]]になる。この間に[[正四位下]]に進む。[[安元]]2年([[1176年]])に雅長が有力視されていた[[蔵人頭]]の後任に[[院近臣]]の[[藤原定能]]・[[藤原光能|光能]]が雅長を飛び越えて任命されたことが話題となり、[[九条兼実]]は雅長に同情している(『[[玉葉]]』)。[[治承]]3年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]([[1179年]])に[[従三位]]に叙されて左近衛中将を辞任、[[文治]]元年([[1185年]])に[[参議]]に任ぜられ、4年後に[[従二位]]に昇る。参議在任のまま死去した。
 
*父:藤原雅教
*母:藤原顕能女
*妻:[[藤原顕長]]女
**子:藤原兼教-従五位下
*妻:源家長女(七条院堀川局)
**子:室町(藤原)家信-[[正三位]] [[非参議]]
*母不詳
**子:藤原雅成
**子:藤原長経-従五位上 修理大夫・佐渡守
**子:藤原長信-従五位下 民部大輔
**子:雅海-法眼
**子:清顕-[[園城寺]] 法眼
**子:覚雅-[[延暦寺]] 律師
**女:七条院冷泉
**女:藤原公俊及び藤原長兼室
**女:七条院中納言局
**女:七条院右衛門督
**女:宜秋門院兵衛督
 
 
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