「片岡我童 (13代目)」の版間の差分

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==略歴==
[[片岡仁左衛門 (12代目)|十二代目片岡仁左衛門]]の長男として[[大阪]]に生まれる。[[1917年]](大正6年)片岡はじめの名で初舞台。[[1924年]](大正13年)片岡ひとしと改名。のち東宝劇団に加入、[[1934年]](昭和9年)五代目[[片岡芦燕]]を襲名。[[1955年]](昭和30年)『神霊矢口渡』のお舟で十三代目片岡我童を襲名する(本来なら五代目になるが、父・十二代目仁左衛門の後継ぎという意味から十三代目を名乗った)。真[[女形]]として活躍。
 
[[1958年]](昭和33年)には、[[はとこ]]にあたる[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]らとともに「七人の会」を立ち上げて、不振の極みにあった関西歌舞伎の復興に努めた。古風な上方色の濃い芸風で、晩年まで濃艶な容姿は衰えなかった。特に『廓文章-吉田屋』(くるわぶんしょう・よしだや)のおきさや『恋飛脚大和往来・封印切』(こいびきゃく やまと おうらい・ふういんきり)のおえん、『[[心中天網島]]・河庄』のお庄など、色街の女主人役には定評があった。
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== エピソード ==
若いころは美貌の女形として注目されたが、当芦燕、九代目市川高麗蔵(のちの[[十一代目市川團十郎]])と愛人関係にあった。高麗蔵が市川三升の養子となる[[1940]](昭和15)年ごろまでその関係は続いたが、別れて以後、我童は来世で一緒になるために茶断ちを生涯続け、白湯と水以外は口にしなかった。
 
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