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'''綱淵 謙錠'''(つなぶち けんじょう、[[1924年]]<大正13年>9月21日 - [[1996年]]<平成8年>
旧制[[新潟高校]]から[[旭川師団]]に応召され、[[1945年]]<昭和20年>
山形県飽海郡[[遊佐町]]にて漁業を営んでいた父兼吉と、函館生まれの母の1男2女の長男として移住後の樺太登富津に生まれる。綱渕家は、かつて川の両岸に綱を渡し舟を往復させた渡し守であったが、金品を強奪するのに嫌気が差し神官になったとされる家柄。小学校入学後同家は急に没落、貧しさの中であったが、漢字好きで、自作を朗読させてくれた中学の国語教師の薫陶もあって物書きの素地ができたという。昭和18年旧制新潟高校に入学、ロシア文学に夢中になり、付いた渾名が「トリンコフ・ラウヘンビッチ・メチスキー(酒野煙野助平)」。生涯のエリオット気違いになったのもこの頃。翌春[[徴兵検査]]で甲種合格、夏休みに上京する一方富山県の不二越製鉄所で勤労動員。[[20年]]2月学徒出陣により旭川歩兵部隊に入隊、8月玉音放送を旭川師団の営庭で聴く。
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