「ペドロ1世 (ポルトガル王)」の版間の差分

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名前もあだ名も同じで混同されやすいが、同じく「正義王」「残酷王」と呼ばれる[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]は甥にあたる。
 
ペドロ1世は、2番目の妻コンスタンサ・マリアヌエルの[[侍女]]、[[イネス・デ・カストロ]]との悲恋で知られる。カスティーリャ王族から[[フアン・マヌエル]]の娘コンスタンサ・マヌエル[[]]に迎えたものの、彼はその侍女イネスと恋に落ち、怒った父によって仲を引き裂かれてしまう。コンスタンサ・マヌエルが死去すると2人の仲は公然化し、子供も生まれるが、カスティーリャ王国を恐れた父とその重臣達は[[1355年]]、イネスを[[コインブラ]]の[[涙の館]]で[[暗殺]]した。しかしそれでも彼女に対する愛は消えず、即位した後ペドロ1世は[[暗殺]]にかかわった重臣を[[粛清]]し、自身がイネスと秘密裡に結婚していたとし彼女を王妃として認めさせた。
 
ペドロ1世はイネスの暗殺に関わった[[貴族]]を残酷に殺害したが、それだけでなく身分にかかわらず罪人を処罰した。またポルトガル王位とポルトガルの[[教会]]から[[教皇|ローマ教皇]]の影響を排除するために改革を実施するなど、ペドロ1世の政策は大きな成功を収めた。さらに妻がカスティーリャ出身だったこともあり、カスティーリャ王国による[[アラゴン王国]]への侵入にも参加した。
 
ペドロ1世は1367年に死去し、[[アルコバサ]]の[[アルコバッサ修道院|サンタ・マリア修道院]]にイネスと並んで葬られている。
 
{{先代次代|[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル王]]|1357 - 1367|[[アフォンソ4世 (ポルトガル王)|アフォンソ4世]]|[[フェルナンド1世 (ポルトガル王)|フェルナンド1世]]}}
 
[[Category{{DEFAULTSORT:ポルトガルの君主|へとろ1]]}}
[[Category:ゴーニャ家|へとろ1トガルの君主]]
[[Category:1320年生|へとろ1ボルゴーニャ家]]
[[Category:13671320没|へとろ1]]
[[Category:1367年没]]
 
[[ca:Pere I de Portugal]]