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'''劉瑾'''(りゅうきん、生年不詳 - [[1510年]]([[正徳 (明)|正徳]]5年([[1510年]])秋[[8月 (旧暦)|8月]])は、[[明|明代]]の[[宦官]]。[[正徳帝|武宗]]期の初め年に皇帝の寵愛を受け朝政治を専断した。自ら帝後に皇位につこうと謀反簒奪を企て計画したために[[凌遅刑]]に処された。
出身は[[陝西省|陝西]]興平の人で、元の旧姓は「談と」であった伝えられる。無頼出身のより自宮者で、し宮中に入ってり劉という姓の宦官に従い、やがてその姓を受けた。同僚の宦官7人と手を組んで結託し「'''八虎'''」と称しされ、武宗正徳帝に逸楽を勧めて遊蕩に耽溺させることで、政治の実権を掌握した。
劉瑾は一部の朝臣と結んで託し朝政治を壟断し、[[東廠]]・[[西廠]]などの諜報機関を使って反対派を監視弾圧し、公然と収賄政治によりを行って朝政を堕落させた。これ劉瑾の政治姿勢に対する世間の批判反発は強く、この時期に起こっ[[1510年]]([[正徳]]10年]]、[[寧夏で]]発生した[[朱寘鐇]]による[[安化王の乱]]も、劉瑾の排除を名分としその反乱理由に掲げていたる。武宗正徳帝の寵愛を失った後にも疑わ粛清されることを恐れ始めた劉瑾は、[[1510年]](正徳10年(1510年)、宦官では初となる帝位の簒奪を企てるが、「八虎」の仲間成員である[[張永]]の密告に告発されてより逮捕らえられ、[[凌遅刑]](寸磔)に処せられた。特この3357刀に及ぶ凌遅刑の様子は刑務官であった[[張文麟]]によって詳細に記されている。
処刑された劉瑾の財産は処刑後に没収されたが、その内容は『[[二十二史劄記]]』によれば、没収財産は金250万両、銀50005,000万両、その他無数え切れないほどの珍宝だったといわれている。これはがあり、当時の[[戸部 (六部)|戸部]]の明朝歳入の10年分に達相当するものだであった。
== 関連作品 ==
*[[田中芳樹]]著『[[黒竜潭異聞|黒竜潭異聞〜中国歴史奇譚集〜]]』 [[田中芳樹]] 著、([[実業之日本社]])
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