「オットー・ワーグナー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
FlaBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: sk:Otto Wagner
編集の要約なし
1行目:
'''オットー・ワーグナー'''('''Otto Wagner''', [[1841年]][[7月13日]] - [[1918年]][[4月11日]])は[[オーストリア]]の[[建築家]]であ、[[都市計画家]]。オットー・ヴァーグナーなどとも表記される。

「芸術は必要にのみ従う」(ARTIS SOLA DOMINA NECESSITAS)と主張して、機能性、合理性を重視する[[モダニズム建築|近代建築]]の理念を表現した。新しい造形をめざした[[ウィーン分離派]]に参加した。
:オットー・ヴァーグナーなどとも表記される。
 
[[画像:MetrokarlplatzWK.jpg|thumb|カールスプラッツ駅]]
8 ⟶ 9行目:
初期の作品として、古典主義的なウィーン国立銀行、ワーグナー別邸、都市計画案アルティブス(Artibus)などがある。この間、母親の意向により1863年に結婚。1880年に母が死去した後に離婚し、1883年に再婚した。
 
18911890年に作品集を刊行。1894年にハゼナウアー都市計画顧問に就ウィーン美術学校教授ための壮大な都市計画プロジェクトの準備就任取り掛かる。また、同年以降、ウィーン市の交通施設・ドナウ整備委員会に参画し、ドナウ運河の水門、ウィーン環状鉄道の駅舎、トンネル、橋梁(1894-1899年)や都市計画などに関わった。
 
1891年に作品集を刊行。1894年にハゼナウアーの後任としてウィーン美術学校の教授に就任。1897年、画家[[グスタフ・クリムト|クリムト]]を中心にウィーン分離派が結成されると、ワーグナーの教え子[[ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ|オルブリッヒ]]や[[ヨーゼフ・ホフマン]]が参加。2年後の1899年、ワーグナー自身も分離派に加わったが、やがて内部の対立から1905年にクリムトとともに脱退した。
 
ウィーンのカール広場に建設する博物館の設計コンペ(1907年)では、ワーグナーの案が当選したが、反対派のため紛糾し、結局実現しなかった。
37 ⟶ 38行目:
== 関連項目 ==
*[[モダニズム建築]]
[[Category{{DEFAULTSORT:オーストリアの建築家|わあくなあおつとお]]}}
[[Category:1841年生|わあくなあおつとおオーストリアの建築家]]
[[Category:1918年没|わあくなあおつとお都市計画家]]
[[Category:オーストリアの人物]]
[[Category:1841年生]]
[[Category:1918年没]]
 
{{Commonscat|Otto Wagner}}