「庄家次」の版間の差分

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==吾妻鏡における記述==
『[[吾妻鏡]]』の、[[建長]]2年([[1250年]]・13世紀中頃)3月1日条、造閑院殿雑掌の事、において、「本庄三郎左衛門」の名で記載されているのが、文献上での家次の名の初見であり、弟である四郎左衛門尉時家の名も見られる([[京都]]に出向いていたものと見られる)。これが家次の名が確認できる初めてであり、最後である。弟である時家に対し、余りにも登場していないが、これは『吾妻鏡』が[[東国]]主体の内容である為と考えられ、[[西日本]]で活動していた家次は余り確認されていなかったものとみられる。また、『吾妻鏡』の人名の誤記や混同の多さから考えて、本来は、「庄三郎右衛門」と考えられ、本庄三郎左衛門は誤記と考えられる。『吾妻鏡』の記述から、家次か時家が初めて本庄氏を名乗ったものと見られるが、家次が備中庄氏として活動していた以上、本庄氏を初めて名乗ったのは弟の時家と考えられる。
 
==その他==
*一説に、庄氏本宗家一族が備中国にそのまま土着したのは、稼ぎ・収入の差ともされる。
*『吾妻鏡』に記載されている[[本庄朝次]]は家次の嫡子と考えられる。
 
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