「ジョーゼフ・ピューリツァー」の版間の差分

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ピューリツァー社について
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== 生涯 ==
[[ハンガリー]]の[[チョングラード県]][[マコー]]で、[[ユダヤ系]]の家庭に生まれる。[[1864年]]にアメリカへ移住し、[[南北戦争]]に従軍した。その後[[ミズーリ州]][[セントルイス]]に定住した。ここで彼は[[1868年]]にドイツ語の日刊新聞「ウェストリッヒ・ポスト Westliche Post」で働き始めた。彼は[[共和党 (アメリカ)|共和党]]に加わり、[[1869年]]にミズーリ州議会議員に選任された。[[1872年]]に彼は3,000ドルでポスト紙を購入した。その後、[[1878年]]には2,700ドルでセントルイス・ディスパッチ紙を買い、二紙を統合しセントルイスの日刊新聞、[[セントルイス・ポストディスパッチ]]紙とした。
 
[[1883年]]にピューリツァーはジェイ・グールドから346,000ドルでニューヨーク・ワールド紙を購入した。それは年間40,000ドルの赤字を出していた。ピューリツァーはワールド紙の焦点を、人間の興味の物語、スキャンダルおよびセンセーショナリズムへ移した。[[1885年]]、彼は下院議員に選任された。その購読者数は彼が同紙を購入した時点の15,000から600,000に達しアメリカで最大の新聞になった。[[1887年]]には、彼は有名なジャーナリスト、ネリー・ブライを雇用した。
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[[1892年]]にピューリツァーは[[コロンビア大学]]の学長セス・ロウに世界初のジャーナリズムの学校を設立する金銭を提供することを申し出た。大学は最初にその申し出を拒絶した。[[1902年]]、コロンビア大学の新学長ニコラス・マレー・バトラーは、学校の設立および賞の計画に理解を示した。しかし、ピューリツァーのこの夢は彼の死後まで実現しなかった。ピューリツァーは、彼の意志に基づき大学に200万ドルを残した。それは[[1912年]]のコロンビア大学ジャーナリズム大学院の設立に結びついた。しかし、ジャーナリズムの最初の学校はミズーリ大学に作られた。[[1917年]]には、最初のピューリツァー賞がピューリツァーの遺志に基づき与えられた。また、コロンビア大学ジャーナリズム大学院は今なお世界で最も有名な学校の一つである。
 
ジョーゼフ・ピューリツァーは[[1911年]]に、[[サウスカロライナ州]]チャールストンの湾の彼のヨットで死去した。彼は[[ニューヨーク州]][[ブロンクス区]]のウッドローン墓地に埋葬されている。
 
なお、ピューリツァーの名を冠したピューリツァー社([http://en.wikipedia.org/wiki/Pulitzer,_Inc. Pulitzer,_Inc.])が、セントルイス・ポスト・ディスパッチをはじめとする複数の新聞の発行会社として[[2005年]]まで存在していた。2005年にピューリツァー社は同業のリー・エンタープライゼス([http://en.wikipedia.org/wiki/Lee_Enterprises Lee_Enterprises])に14億ドルで身売りされている。
 
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