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元禄14年(1701年)3月14日に[[浅野内匠頭]]が[[吉良上野介]]に殿中刃傷に及んだ際には潮田は国許の赤穂にいた。4月19日の[[赤穂城]]開城後も藩政残務処理のため[[大石内蔵助]]のもとで働き、この間家族は姉の嫁ぎ先である加西郡の豪農渡辺家に預けている。9月下旬には内蔵助から[[堀部安兵衛]]ら江戸急進派を鎮撫の特命を受けて[[原惣右衛門]]や[[中村勘助]]、[[大高源五]]らとともに江戸へ下向するが、逆に丸め込まれて急進派になってしまう。その後、業を煮やした内蔵助自身の江戸下向があり、11月23日に内蔵助が江戸を発つ際に潮田もお供して、12月には京都へ帰っていった。12月9日には[[中村勘助]]とともに神文血判書を提出した。、[[元禄]]15年(1702年)7月、浅野大学に広島藩お預り処分が決まった後、円山会議において大石内蔵助が仇討ちを決意したので、これを江戸の同志達に伝えるべく、7月29日、[[堀部安兵衛]](円山会議出席のため上洛中だった)とともに江戸へ下向した。8月12日の隅田川舟中会議にてこれを同志達に伝えた後、9月までに近松勘六とともに京都へ帰った。その後、10月7日に大石内蔵助にお供して江戸へ下向し、10月24日に江戸到着。大石と同じ小山屋の借家に入った。
 
吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して戦い、本懐後、熊本藩細川綱利の屋敷に預けられた。2月4日、細川家家臣一宮源四郎の介錯で切腹した。享年35。主君[[浅野長矩]]と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。法名は刃そう信士。
 
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