「大高忠雄」の版間の差分

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吉良屋敷への討ち入りでは、源五は表門隊に属して大太刀を持って奮戦。見事吉良上野介の首をあげ、一行は浅野長矩の眠る泉岳寺へ入った。泉岳寺では子葉を知る僧侶から一句を求められ、「山をさく刀もおれて松の雪」の一句を残した。
 
[[江戸幕府|幕府]]により内蔵助の嫡男[[大石主税]]らとともに芝三田の[[松平定直|松平隠岐守]]の中屋敷へ預けられた。[[元禄]]16年([[1703年]])2月4日、赤穂浪士へ切腹が命じられ、源五は松平隠岐守預かりの浪士10人の最後に切腹の座につき、「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」の一句を残した。松平家家臣の[[宮原頼安|宮原久太夫頼安]]の介錯で切腹。[[享年]]32。[[戒名]]は、刃無一劔信士。宮原は、この介錯の後、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業というものに嫌気がさし、地元に帰り、武士を捨てて酒屋に転じている。
 
==逸話==