「第一次メッセニア戦争」の版間の差分

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|result=スパルタの勝利
|combatant1=[[スパルタ]]<br>[[コリントス]]
|combatant2=[[メッセニア]]<br>[[アルカディア]]<br>[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]<br>[[シキュオン]]
|commander1=[[テオポンポス (スパルタ王)|テオポンポス]]<br>[[ポリュドロス]]
|commander2=[[エウパエス]]<br>[[アリストデモス (メッセニア王)|アリストデモス]]
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== 経過 ==
 
当初、スパルタによる[[アンフェイア]]攻略までは小競り合いが続いただけであった。スパルタはアンフェイア攻略後4年に渡り他の都市を攻撃するも、ことごとく失敗した。二度の会戦の後、メッセニアでは疫病が流行し、それによってメッセニアの戦況は悪化した。そこで、メッセニア軍は要塞化された[[イトメ山]]へ引いた。そして、それから6年目の年にスパルタはイトメ攻略の軍を派遣した。その時の戦いではメッセニア王[[エウパエス]]が戦死したものの、戦いは痛みわけに終わった。その後、メッセニア軍は[[デルフォイ]]に[[神託]]を請い、王家の処女を生贄とすれば勝利できるとの答を得て、[[アリストデモス (メッセニア王)|アリストデモス]]の娘が生贄に選ばれた。これによってアリストデモスはメッセニア王に選ばれた。
 
アリストデモス即位から5年目の年にスパルタはイトメ山攻略のために二人の王が率いる軍を派遣したが、紀元前724年の[[イトメの戦い]]でメッセニア軍に敗北した。しかし、その後、先の会戦の勝利の立役者アリストデモスは娘の亡霊に悩まされ、娘の墓の前で自殺した。優秀な指揮官を失ったメッセニアは狼狽し、一方スパルタは長期的な包囲戦に[[戦略]]を転換した。これによってメッセニア軍は飢餓に苦しめられ、追い詰められたメッセニア軍は決死の反撃を試みるも、返り討ちに遭った。最終的にはメッセニア北部から撤退し、戦争はスパルタの勝利に終わった。