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'''青岩院'''(せいがんいん、[[永正]]9年([[1512年]]) - [[永禄]]11年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]([[1568年]][[6月2日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将[[長尾為景]]の後室。'''虎御前'''(とらごぜん)の呼び名で知られ、[[上杉謙信]]の生母にあたる。父親は『上杉家御年譜』では「栖吉城主長尾肥前守房景」、『謙信公御書集』では「栖吉城主長尾肥前守顕吉」と記されている人物
 
== 概要 ==
本名は不明。そもそも虎御前の名も、子の上杉謙信の幼名である虎千代に因んで後世そのように呼ばれたとも言われる。夫為景との間には景虎(上杉謙信)がおり、[[仙桃院]]の生母だとも言われるが、確証はない。信心に篤く、謙信の信仰にも影響を与えたという。為景の死後は仏門に入ってその菩提を弔う余生を過ごした。
武将[[長尾為景]]の[[後室]]。'''虎御前'''(とらごぜん)の呼び名で知られ、[[上杉謙信]]の生母にあたる。父親について『[[上杉家御年譜]]』では「[[栖吉城|栖吉]][[城主]][[長尾房景|長尾肥前守房景]]」、『[[謙信公御書集]]』では「栖吉城主[[長尾顕吉|長尾肥前守顕吉]]」と記されている。
 
本名は不明。そもそも虎御前の名も、子の上杉謙信の幼名である虎千代に因んで後世そのように呼ばれたとも言われる。夫為景との間には景虎(上杉謙信)がおり、[[仙桃院]]の生母だとも言われるが、確証はない。信心に篤く、謙信の信仰にも影響を与えたという。為景の死後は仏門に入ってその[[菩提]]を弔う余生を過ごした。
虎御前の父は長尾政景の祖父に当たる上田長尾家当主長尾顕吉と同一人物であるとする説も存在する。
 
虎御前の父は長尾政景の祖父に当たる[[上田長尾家]]当主長尾顕吉と同一人物であるとする説も存在するが、『栖吉城主の娘』という記載はどの史料もほぼ共通しており、通説では[[古志長尾家]]・房景の娘とされている。