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'''松浦 鎮信'''(まつら しげのぶ、[[1622年]][[4月23日]]([[元和 (日本)|元和]]8年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]])-[[1703年]][[11月14日]]([[元禄]]16年[[10月6日 (旧暦)|10月6日]]))は、[[江戸時代]]前期の[[大名]]。[[肥前国]][[平戸藩]]の第4代藩主。
 
第3代藩主[[松浦隆信 (宗陽)|松浦隆信]]の[[長男]]。母は[[牧野康成 (大胡藩主)|牧野康成]]の娘・充。正室は藤井[[松平忠国 (播磨国明石藩主)|松平忠国]]の娘。子に[[松浦棟]]([[長男]])、[[松浦昌]](次男)、[[松浦篤信]](四男)、松浦斉(五男)、娘([[板倉重冬]]正室)、娘([[石川乗政]]継室)、娘(松浦信知室)、娘([[牧野忠貴]]正室)、娘([[南部政信]]正室のち[[新庄直賢]]継室)、娘(松浦信方養女)、娘(熊沢正令室)。幼名は千代鶴、のちに源三郎、諱は重信と称したが、隠居してからは鎮信と改めた。官位は[[従五位下]][[肥前国|肥前守]]。号は天祥庵、徳祐、円恵。
 
元和8年(1622年)3月13日に[[江戸藩]]邸で生まれる。[[寛永]]14年([[1637年]])5月に父[[松浦隆信 (宗陽)|隆信]]の他界に伴い藩主を継ぐ。この年の[[島原の乱]]では主に長崎の警護にあたっている。ところが[[島原の乱]]の終結後に幕府巡視があり、[[オランダ]]との独占的な交易によって得た強力な兵備が知られて、寛永18年([[1641年]])平戸商館の閉鎖が命じられることになる。このために[[平戸藩]]は巨利を失い財政が苦しくなったが、以後新田開発を始めとして諸産業を振興し、九州第一の善治良政と讃えられるまでになった。
 
[[山鹿素行]]との交友が深く、その助言をよく聞いていた。行政手腕もさることながら、国典漢籍蘭学に通じ、禅や神道を学び、書を嗜む文化人としても知られる。特に[[茶道]]は若い頃から愛好し、様々な流派の茶人と交流して研究を重ねた上、[[片桐貞昌|片桐石州]]に師事し[[石州流]]の皆伝を受け、今日[[鎮信流]]として知られる茶道の一派を立てるに至った。
 
元禄2年([[1689年]])隠居し、後を[[長男]][[松浦|棟]]が継いだ。元禄16年(1703年)10月6日、向島の別邸にて死去。墓所は本所天祥寺。天祥院殿慶厳徳祐大居士。
 
==関連項目==