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国名の {{Lang|en|''America''}} は、[[アメリカ大陸]]の名、すなわち、[[イタリア]]人の[[探検家]][[アメリゴ・ヴェスプッチ]]の[[ラテン語]]名から付けられた。その詳細については、[[アメリカ州]]を参照のこと。日本語の「合衆国」という表記の由来や意味については、[[合衆国]]を参照のこと。「アメリカ合衆国」の代わりに、より正確な訳であるとして「[[アメリカ合州国]]」を使用する人たちや「連邦政府」という呼称があることから「アメリカ合衆国連邦」と呼ばれることもある。
 
北米大陸がヨーロッパ諸国の植民地支配を受ける中、イギリスと[[13植民地]]との間で対立が生じた。[[1775年]]に'''[[アメリカ独立戦争]]'''が勃発すると[[1776年]]に[[アメリカ独立宣言|独立宣言]]を発== 表し、イギリス優位を崩すためにフランスと同盟を締結した。13植民地が勝利すると[[1783年]]に[[パリ条約]]が結ばれ、「アメリカ合衆国」として正式に独立し、独立した13州に加えて[[ミシシッピ川]]以東と[[五大湖]]以南をイギリスから割譲された。
== 歴史 ==
{{Main|アメリカ合衆国の歴史}}
 
=== 新大陸の発見 ===
[[Image:MayflowerHarbor.jpg|thumb|right|200px|新大陸[[アメリカ州|アメリカ]]へと[[大西洋]]を船出した、帆船[[メイフラワー号]]]]
 
[[イタリア]]([[ジェノヴァ]])人の'''[[クリストファー・コロンブス]]'''は[[スペイン]][[女王]][[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]の承諾を受け、[[大西洋]]周りによる[[アジア]]諸国の「発見」を志したが、[[1492年]]に現在の[[西インド諸島]]にたどり着いた。当初は、[[東アジア]]の一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家[[アメリゴ・ヴェスプッチ]]の主張を元に新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者[[マルティーン・ヴァルトゼーミュラー]]が[[アメリカ州|アメリカ大陸]]と命名。その名が定着していった。
 
これをきっかけに、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への入植が始まった。[[イタリア]]の[[ジョン・カボット]]が北アメリカ大陸の東海岸を探検し、[[イギリス]]が[[ニューイングランド]]植民地の領有を宣言し、[[フランス]]も[[ジャック・カルティエ]]が[[セントローレンス川]]を探検した後、その一帯を[[ヌーベルフランス]]植民地とするなど、南北アメリカ大陸の探検と開拓、そして先住民の放逐と虐殺の歴史がはじまった。
 
後にアメリカ人は「明白な天命([[マニフェスト・デスティニー]])」をスローガンに奥地への開拓を進め、先住民を排除・迫害・追放しつつ、たとえ貧民でも自らの労働で土地を得て豊かな暮らしを手に出来るという文化を形成して「自由と民主主義」理念の源流を形作っていった。またその成功が誇張も含めて旧大陸に伝わり、さらに各地からの移民を誘発する事ともなった。それは同時に先住民であるネイティブ・アメリカンを虐殺、追放して彼らの土地を奪っていったことも伴っていた。[http://en.wikipedia.org/wiki/Native_Americans_in_the_United_States#Removal_and_reservations]
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=== アメリカ独立 ===
[[画像:Declaration independence.jpg|thumb|left|200px|ジョン・トランバルの描いた「独立宣言への署名」。この絵は[[アメリカ合衆国ドル|2ドル紙幣]]の裏面図版に使用されている。]]
 
北米大陸がヨーロッパ諸国の植民地支配を受ける中、イギリスと[[13植民地]]との間で対立が生じた。[[1775年]]に'''[[アメリカ独立戦争]]'''が勃発すると[[1776年]]に[[アメリカ独立宣言|独立宣言]]を発表し、イギリス優位を崩すためにフランスと同盟を締結した。13植民地が勝利すると[[1783年]]に[[パリ条約]]が結ばれ、「アメリカ合衆国」として正式に独立し、独立した13州に加えて[[ミシシッピ川]]以東と[[五大湖]]以南をイギリスから割譲された。
 
[[1787年]][[9月17日]]には、[[連合規約]]に代えてさらに[[中央集権]]的な[[アメリカ合衆国憲法|合衆国憲法]]が激論の末に制定される。[[1789年]][[3月4日]]に発効され、同年に初代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]として[[ジョージ・ワシントン]]が就任した。
ggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggg
 
アメリカは、[[自由]]と[[民主主義]]を掲げたことから、当時としては珍しい民主主義国家であった。しかし、[[アフリカ大陸]]から連れてこられた[[奴隷]]や[[アメリカ先住民]]の権利はほとんど保障されなかった。結果、奴隷制度と人種差別が独立後のアメリカにも根付くことになる。<br clear=all>外交にも力を入れるようになっていく。
 
=== 西部開拓と南北戦争 ===
[[画像:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives.png|thumb|right|200px|[[南北戦争]]の中で、事実上の決戦となった[[ゲティスバーグの戦い]]]]
未開の地であった西部の勢力拡大を目指し、[[1803年]]の[[フランス]]領[[ルイジアナ買収]]を行なった。しかし、イギリスが西部開拓を阻んだため、[[1812年]]に[[米英戦争]]が勃発するも[[1814年]]に[[ガン条約]]を締結して事態は収拾し、西部進出を進めていった。入植時から続いていた[[インディアン戦争|先住民との対立]]を続けながらも、[[1819年]]の[[スペイン]]領[[アダムズ=オニス条約|フロリダ買収]]、[[1836年]]の[[メキシコ領テキサス]]での[[テキサス共和国]]樹立とアメリカへの併合、[[米墨戦争]]後の領土割譲などにより、[[アメリカ西海岸|西海岸]]まで領土は達した。現在の[[アメリカ合衆国本土|アメリカ本土]]と呼ばれる48州のエリアを確立したのである。
 
また、この頃から遠洋捕鯨が盛んになり、[[太平洋]]にも進出を始めた。[[1850年代]]、[[鎖国]]状態だった[[日本]]を食料や燃料調達のために米軍艦を派遣。二つの[[不平等条約]]を締結し、開国させた。以後、アジア外交にも力を入れるようになっていく。
 
[[1861年]]、奴隷制廃止に異を唱えて独立宣言をした[[アメリカ南部連合|南部連合]]と合衆国の間で'''[[南北戦争]]'''が勃発し、国家分裂の危機を迎えた。これを受けて[[1862年]]に[[エイブラハム・リンカーン]]大統領によって'''[[奴隷解放宣言]]'''が発表され、[[1865年]]に南北戦争は合衆国の勝利で終結し、南部連合は解体された。だが、法の上でのアフリカ系アメリカ人や先住民など、その他の少数民族に対する[[人種差別]]は、その後も100年以上に渡って続くことになる。
 
[[冷南北]]においては争後ソ連を盟主とした[[共産主義]]陣営に対抗する[[資本主義]]陣営の盟主として、西ヨーロッパ諸国や日本、[[韓国]]、[[台湾]]などに[[マーシャル・プラン|経済支援]]や[[NATO|軍事同盟]]締結などで鉄道支援し、'''[[朝鮮戦争]]'''、'''[[ベトナム戦争]]'''、[[グレナダ侵攻]]など世界各地の紛争に積極的に介入する。核兵器の製造競争などもあり、[[ジョン・F・ケネディ]]大統領の時にソ連との間で'''[[キューバ危機]]'''が起こるなど、[[核戦争]]の危機も度々発生した。
南北戦争後、鉄道網の発達と共に本格的な[[西部開拓時代]]に突入した。19世紀後半には、鉄鋼業や石油業が繁栄し、アメリカ経済が大きく躍進した([[金ぴか時代]])。また、[[トーマス・エジソン|エジソン]]などの発明家によって、[[白熱電球]]や[[電話]]など、現代文明に欠かせない発明が次々に行なわれ、[[黄金時代]]を迎える基礎を築いた。
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=== 海外進出と世界恐慌 ===
[[画像:Crowd outside nyse.jpg|thumb|left|200px|[[世界恐慌]]で混乱する[[ニューヨーク]]・[[ウォール街]]]]
南北戦争後も諸外国との戦争などを通して、海外領土の拡大が続けられた。[[1867年]]には、[[アラスカ州|アラスカ]]を[[ロシア]]から買収し、[[1898年]]には[[ハワイ王国]]の併合とスペインとの[[米西戦争]]に勝利して[[グアム]]、[[フィリピン]]、[[プエルトリコ]]を[[植民地]]にし、[[キューバ]]を[[保護国]]に指定した。これにより、現在の北米・太平洋圏でのアメリカ領土が確立した。[[1914年]]にヨーロッパで勃発した'''[[第一次世界大戦]]'''では当初中立を守ったが、次第に連合国([[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[日本]]など)に傾き、[[1917年]]には連合国側として参戦した。さらに戦時中に[[ハイチ]]、[[ドミニカ共和国]]に出兵して軍政を敷いた。また、[[共産主義]]の広まりを警戒して[[シベリア出兵]]も行なった。
 
大戦後は、[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領の主導によって'''[[国際連盟]]'''設立に大きな役目を担ったが、[[モンロー主義]]を唱えて[[ラテンアメリカ]]に対する支配権を維持しようとする[[アメリカ合衆国上院|上院]]の反対により連盟への加盟はしなかった。しかし、他の戦勝国とともに5大国の一員として注目されることになる。
 
続く[[1920年代]]の[[バブル経済]]に基づく空前の繁栄「轟く20年代」([[:en:Roaring Twenties|Roaring Twenties]])が起こるが、[[1929年]]10月29日[[ウォール街]]・[[ニューヨーク証券取引所]]で起った株の大暴落「ブラック・チューズデー」がきっかけとなり、[[1939年]]まで続く'''[[世界恐慌]]'''が始まった。この世界恐慌によって、労働者や失業者による暴動が頻発するなど大きな社会的不安を招いたが、[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領の'''[[ニューディール政策]]'''によって[[1930年代]]後半に経済は回復していった。一方で[[ドイツ]]、[[イタリア]]、[[日本]]などで[[軍国主義]]や[[ファシズム]]が台頭し始め、後に起こる'''[[第二次世界大戦]]'''の引き金になっていった。<br clear=all>
 
=== 第二次世界大戦 ===
[[画像:Yalta summit 1945 with Churchill, Roosevelt, Stalin.jpg|thumb|right|200px|[[ヤルタ会談]]の連合国首脳]]
[[1939年]]9月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まると[[1941年]]12月には、[[大日本帝国|日本]]による'''[[真珠湾攻撃]]'''が行なわれ、イギリスや[[ソビエト連邦]]などが中心となって構成された[[連合国]]の一員として参戦した。[[日本海軍]]機による[[アメリカ本土空襲]]などの、数回に渡る西海岸への攻撃はあったものの、本土への被害はほとんどなく、事実上の連合諸国への軍事物資の供給工場として機能し、併せて日本やドイツなどの[[枢軸国]]との戦闘でも大きな役割を果たした。
 
[[1945年]]8月には、[[イタリア]]やドイツなど枢軸国からの[[亡命]]科学者の協力を得て[[原子爆弾]]を完成。同年、世界で初めて日本の[[広島]]と[[長崎]]に投下した。ドイツ、イタリアに続いて8月15日には日本も降伏し、第二次世界大戦は事実上の終戦となった。しかし、大戦中に行なった[[日系アメリカ人]]に対する、いわゆる[[日系人の強制収容]]などの非人道的な措置が行なわれ、問題となった。
 
連合国の戦勝国の1国となった上に、主な戦場から本土が離れていたことから国土に殆ど被害を受けなかった。以後、世界最強の経済力と軍事力を保持する超大国として、「自由と民主主義」の理念を目的もしくは大義名分として冷戦期及びそれ以後の外交をリードする事になる。<br clear=all>
 
=== ソ連との冷戦 ===
[[画像:Reagan and Gorbachev hold discussions.jpg|thumb|left|200px|[[1985年]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ミハイル・ゴルバチョフ]][[書記長]]と会談する[[ロナルド・レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]。この2年後となる[[1987年]]には、[[中距離核戦力全廃条約|INF]]が両者によって調印された。]]
 
第二次大戦後は、連合国として共に戦ったソ連との'''[[冷戦|冷たい戦争]]'''が始まった。一時、[[ジョセフ・マッカーシー]]上院議員らに主導された[[赤狩り]]旋風([[マッカーシズム]])が起きるなど、世論を巻き込んで共産主義の打倒を掲げた。
 
[[冷戦]]においては、ソ連を盟主とした[[共産主義]]陣営に対抗する[[資本主義]]陣営の盟主として、西ヨーロッパ諸国や日本、[[韓国]]、[[台湾]]などに[[マーシャル・プラン|経済支援]]や[[NATO|軍事同盟]]締結などで支援し、'''[[朝鮮戦争]]'''、'''[[ベトナム戦争]]'''、[[グレナダ侵攻]]など世界各地の紛争に積極的に介入する。核兵器の製造競争などもあり、[[ジョン・F・ケネディ]]大統領の時にソ連との間で'''[[キューバ危機]]'''が起こるなど、[[核戦争]]の危機も度々発生した。
 
冷戦中に「自由と民主主義の保護」の理念を掲げたが、国益追求も一つの目的でもあった。実力行使で理念と矛盾する事態すら引き起こし、ベトナムへの介入は西側、東側諸国を問わずに大きな非難を呼び、国内世論の分裂を招いた。また、「反共産主義」であるという理由だけで[[アジア]]や[[ラテンアメリカ]]諸国をはじめとする世界の右派軍事独裁政府への支援や軍人に対しても[[パナマ]]の[[米州学校]]で「[[死の部隊]]」の訓練を行なった。こうして育てられた各国の軍人は母国で[[クーデター]]を起こし、母国民に対して政治的不安定と貧困を与える結果となっていった。
 
同時に、大戦の後遺症に苦しむ西欧諸国や日本、韓国、台湾など同盟国への支援と安全保障の提供は、経済成長をもたらす一因ともなって東側との大きな生活水準格差をうみだし、後に[[東欧革命]]の原動力の一つになった。また、長引く冷戦時代を通して軍部と軍需産業を中心とした経済界が結びつき「[[軍産複合体]]」を形成した。政治、経済、軍事政策に深く関わる構図も生まれ、アメリカの戦争を止められない状態を揶揄して「戦争中毒」と呼ぶ論調も存在する。
 
=== 人種差別と公民権運動 ===
[[画像:Martin Luther King - March on Washington.jpg|thumb|right|200px|[[キング牧師]]による[[I Have a Dream]]の演説は、アメリカの人種差別撤廃への第一歩となった。]]
「民主主義国家」であるアメリカであったが、1862年の奴隷解放宣言以降や第二次世界大戦後に至っても南部を中心に白人による[[人種差別]]が認められており、[[1960年代]]にはこの様な状態に抗議する[[キング牧師]]を中心とした[[アフリカ系アメリカ人]]などが、法の上での差別撤廃を訴える[[公民権運動]]を行なった。これらの運動の結果、[[1964年]]7月に[[リンドン・ジョンソン]]大統領の下で'''[[市民権法#アメリカ公民権法|公民権法]]'''(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)が制定された。
 
しかしその後も差別撤廃のための法的制度の整備は進んだものの、現在冷戦中至るまで[[先住民]]や[[ユダヤ系]]移民、非白人系移民「自由その子孫(アフリカ系、[[ヒスパニック]]、日系など)などの少数族に対する人種差別問題は実態としては解消していない。それは就職主主義保護」格差等から、警察官が人種を理由にアンフェアな扱いをしたといった問題として[[ロス暴動]]のような大きな事件の原因となる事すらある。アフリカ人への[[奴隷貿易]]や先住民虐殺については、連邦政府としては未だに謝罪をしていない。<br clear=all>
 
=== 貿易赤字と世界の警察 ===