「雍仁親王妃勢津子」の版間の差分

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旧[[会津藩|會津若松藩]]主[[松平容保]]の六男で外交官の[[松平恒雄]]の長女。母は[[鍋島直大]]侯爵([[佐賀藩]]十一代藩主)の娘・[[松平信子|信子]]。
 
勢津子は父の任地[[イギリス]]で生まれ、父と共に[[ワシントンD.C.|ワシントン]]の大使館で少女期を過ごし、米国ワシントンD.C.のフレンドスクール(現[[シドウェル・フレンズ・スクール]])に学んだ。思春期にイギリス、アメリカ等の英語圏での在住が数年以上続いたいわゆる[[帰国子女]]で英語に流暢堪能なだけなく、外国人を前にした英語のスピーチはお手のものだったという
 
女子[[学習院]]初等科3年の時、実業家[[樺山愛輔]]伯爵の次女[[白洲正子|正子]]と同級生となり、以後2人は生涯の友となった。 その正子によれば、勢津子は物事に寛容で、勉学に励む人であったという。 両家は仲が良く、愛輔はのちに貞明皇后の内意を受けて雍仁親王と勢津子の婚姻を取り持った。
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「'''[[逆賊]]'''」「'''[[朝敵]]'''」の領袖である松平容保の孫にあたる勢津子の[[皇室]]への入輿は、会津士族の徹底的な復権に繋がり、当然会津人の感激は並ならぬものであったという。[[大正天皇]]の四皇子(昭和天皇・雍仁親王・[[高松宮宣仁親王]]・[[三笠宮崇仁親王]])のうち、[[崇仁親王妃百合子]]を除く三親王妃([[香淳皇后]]・勢津子・[[宣仁親王妃喜久子]])は、いずれも幕末の将軍もしくは大物佐幕派([[久邇宮朝彦親王]]・松平容保・[[徳川慶喜]])の孫であり、本人たちもそれを笑い話にしていたと言われる。
 
[[1939年]](昭和14年)に香淳皇后の令旨により、勢津子妃を[[総裁]]としてする[[結核予防会]]が設立される。しかし皮肉にも翌年、秩父宮が結核を発病。総裁就任にあたり結核について学び、雍仁親王の様子が結核の初期症状に似ていることに気づくが、医師の診断でもなかなか断定は出来ず発見が遅れてしまった。翌1941年(昭和16年)より秩父宮の療養のため御殿場で生活を送り、ここで終戦を迎える。
 
親王の代わりに公務を務めたり、看病をするも、秩父宮は[[1953年]](昭和28年)[[1月4日]]に[[肺]][[結核]]で薨去。 残された勢津子妃は結核予防会総裁を長年にわたり務め、[[1957年]](昭和32年)には秩父宮記念診療所を開設した。その後も一人で宮家を守り続けるが、[[1995年]](平成7年)[[8月25日]]、85歳の生涯を閉じ、亡骸は[[豊島岡墓地]]の雍仁親王と同じ墓に葬られた。
 
秩父宮家は勢津子の死去により絶家となった。また遺言により、平成8年(1996年)に御殿場別邸が御殿場市へ遺贈された。その後平成15年(2003年)になって[[秩父宮記念公園]]として開園された。
 
== 家系 ==
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== 逸話 ==
* [[1971年]]にイギリスのJ.ハークネスから捧げられた、[[プリンセスチチブ]]という名のオレンジピンクの[[薔薇]]に、その名を付けられていることでも有名。
* 雍仁親王は[[日本アルプス]]を好み、肺結核に罹病する前はよく登山に訪れた。現地でのガイドは「上高地の常サ」(内野常次郎([[1884年]]~[[1949年]]))が付くのが恒例であった。山の主である常サは勢津子を「オカミサン」と呼んで周囲をハラハラさせたが、秩父宮は逆に「常さん、おかみさんでいいよ」と言ったとされる。
* 香淳皇后、[[宣仁親王妃喜久子]]と共に、[[明仁]]親王と[[皇后美智子|正田美智子]]の結婚については反対の立場で一致しており、『東宮様のご縁談について、平民からとはけしからんとのことで、皇后様([[香淳皇后]])が喜久君様([[宣仁親王妃喜久子]])と勢津君様(雍仁親王妃勢津子)をお呼びになってお訴えになった由』([[昭和天皇]]の侍従長・[[入江相政]]の日記より)。また、母で[[貞明皇后]]の御用係も務めた[[松平信子]]も、明仁親王と正田美智子の結婚に猛反対していた(彼女たちの美智子に対する個人的な常軌を逸した激しい嫌悪感と同時に、この結婚が戦後の旧皇族の[[臣籍降下]](=皇籍離脱)や華族令の廃止などに続く「上流社会の没落の流れの象徴」とされていたことによる)。“松平信子、[[柳原白蓮|宮崎白蓮]]らが民族団体([[右翼団体]])を動かして、ご婚儀反対を叫んだりしたよし”の記載が入江日記にある。なお信子は、[[女子学習院]]の[[同窓会]]組織『常盤会』の会長を務め、[[旧皇族]]・[[旧華族]]の婦人の代表を自認しており、娘の勢津子と共に反美智子派旧皇族・旧華族婦人の領袖であり続けた。
* しかし、旧[[会津藩|会津]]藩士[[池上四郎 (大阪市長)|池上四郎]]を曽祖父に持つ[[文仁親王妃紀子]]のことは、美智子皇后の時とは反対に 実の孫のように非常に可愛がっていた。勢津子逝去後、旧秩父宮邸が現秋篠宮邸となり、紀子が結核予防会総裁に就任したことなどの背景には、勢津子の紀子に対する深い好感情も少なからずあるといわれる。
* 年来のかかりつけの[[美容師]]が[[吉行あぐり]]。勢津子逝去まで顧客と美容師としてのよき付き合いが続いた。
* 子女。秩父宮が青森県弘前市・陸軍第八師団歩兵第31連隊に勤務中の[[1935年]]末に一度、懐妊兆候が確認されたが、翌[[1936年]]2月の[[二・二六事件]]発生直後、秩父宮とともに弘前から上京、厳寒の列車旅行が身体に障り[[流産]]した経がある。
 
== 著作 ==