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Chi-Ham (会話 | 投稿記録)
賛寧
 
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文辞にすぐれ、人士と談論すれば、縦横に論を展開した。そのような寧を、人々は「律虎」と称した。呉越の忠懿王[[銭俶]]は、賛寧を監壇兼、両浙僧統に任じ、号を「明義崇文大師」と賜った。
 
[[978年]]、呉越が宋に帰順すると、賛寧は[[阿育王寺]]の舎利塔を奉じて入京し、[[ (王朝)|宋]]の[[太宗 (宋)|太宗]]は、慈福殿で謁見し、紫衣を賜り、都の左街[[天寿寺]]に住せしめ、号を「通慧大師」と賜った。[[太平興国]]元年([[976年]])、詔を奉じて『[[大宋僧史略]]』3卷を編纂し、右街副僧録に任じられた。太平興国7年([[982年]])には、浙東に帰郷し、『[[宋高僧伝]]』を撰することを命じられた。それは、[[梁 (南朝)|梁]]代の[[慧皎]]の『[[高僧伝]]』、[[唐]]の[[道宣]]の『[[続高僧伝]]』の体例に倣い、十科に分類して、[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]より北宋朝に至る、533人の伝、130人の附伝を収録する僧伝であった。[[端拱]]元年([[989年]])に完成し、弟子の顕宗・智輪と共に、太宗に献上された。帝は僧録司に命じて[[大蔵経]]に編入して流通せしめた。
 
[[淳化]]元年([[990年]])には、左街講経首座に任ぜられ、史館編修にも充てられた。また、『鷲嶺聖賢録』を撰した。淳化3年([[992年]])、翰林館編修を兼任させられた。[[至道]]2年([[996年]])には、洛京([[河南省]][[洛陽市]])の教門事を管轄した。