「サライ (都市)」の版間の差分
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ジョチ家第5代当主の[[ベルケ]](在位[[1257年]] - [[1266年]])は、ヴォルガ川水系のさらに上流に'''新サライ'''('''ベルケ・サライ'''、 Sarai Berke、 New Sarai、 Sarai-al-Jadid)を建設したとされるが、その存在には疑問もある。新サライとされる遺跡は同じくアフトゥバ川沿岸のツァーレフ(Tsarev)にあり、[[ヴォルゴグラード]]の南約55kmの位置である。
ジョチ・ウルスの支配層は[[イスラム教]]を受け入れるようになったが、住民の信教には寛容であり、様々な宗教施設が建設された。新サライの時期の[[1261年]]、[[ロシア正教会|ロシア正教]]の主教たちがサライに教会を建設したが、[[大オルダ]]<ref>ジョチ家当主の政権で、一族の諸政権を束ねた中央政権(1243年 - 1502年)。</ref>の分裂が進む[[1454年]]に[[モスクワ]]近郊に移り、クルティツィ(Krutitsy)修道院を築いた。[[イブン=バットゥータ]]は[[
新旧のサライのほか、ジョチ家第12代当主[[ジャーニー・ベク]](在位[[1342年]] - [[1357年]])は[[カザフスタン]]最西部の[[アティラウ州]]周辺に遷都し、'''サライ・チク'''(小サライ、Saray-Jük, Saraychyq)という都市を築いている。[http://www.littera.waseda.ac.jp/faculty/akasaka/zousho/bkkki12.html]
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