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{{Infobox基礎情報 軍人
|name 氏名 = アルバート・シドニー・ジョンストン</br>
| 各国語表記 = Albert Sidney Johnston
|lived 生年月日 = [[1803年]][[2月2日]]-
| 没年月日 = [[1862年]][[4月6日]](59歳没)
|image=[[ 画像: = ASJohnston.jpg|200px]]
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| 画像サイズ =
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|caption 画像説明 = アルバート・シドニー・ジョンストン将軍
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| 渾名 =
|caption=アルバート・シドニー・ジョンストン将軍
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| 所属政体 = {{USA}} (USA)<br/>[[ファイル:Previous flag of Texas.svg|20px]][[テキサス共和国]]<br/>[[ファイル:Confederate National Flag since Mar 4 1865.svg|20px]][[アメリカ連合国]] (CSA)
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|serviceyears 軍歴 = 1826年-1834年(USA)<br/>1830年-1840年(テキサス)<br/>1846年-1861年(USA)<br/>1861年-1862年(CSA)
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|battles=[[ブラック・ホーク戦争]]
| 部隊 =
[[テキサス革命]]<br/>
| 戦闘 = [[ブラック・ホーク戦争]]<br/>[[テキサス革命]]<br/>[[米墨戦争]]
[[米墨戦争]]
* [[モンテレーの戦い]]
* ブエナビスタの戦い
[[ユタ戦争]]<br/>[[南北戦争]]
[[南北戦争]]
* [[シャイローの戦い]](戦死)
| 戦功 =
|awards=
| 賞罰 =
|laterwork=
| 除隊後 =
| 廟 = [[テキサス州]]オースティン、州立墓地
}}
 
'''アルバート・シドニー・ジョンストン'''(英:Albert Sidney Johnston、[[1803年]][[2月2日]]-[[1862年]][[4月6日]])は、[[アメリカ陸軍]]の職業[[軍人]]であり、テキサス軍および[[南軍]]では将軍だった。その軍歴では広範な経験があり、[[テキサス革命]]、[[米墨戦争]]、[[ユタ戦争]]および[[南北戦争]]で参戦した。
 
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=== シャイロー ===
ジョンストンは[[西部戦線 (南北戦争)|西部戦線]]から多くの部隊を集結させて、[[1862年]][[4月6日]]の[[シャイローの戦い]]でグラント軍に対して大規模急襲を掛けた。南軍が北軍の宿営地を陥れ、ジョンストンは自ら軍隊を率い前線で部隊をあちこと動かして、何処にでもいるように見えた。午後2時半頃、それら操軍の一つを指揮しているときに右膝の後に銃弾を受けて負傷した。その時ジョンストンは自分の傷が重傷とは考えず、従軍医を負傷した北軍兵士の治療のために送った。しかし実際に銃弾は膝窩動脈を切断しており、その長靴が出血で一杯になった。数分後に参謀が見ている前で馬から落ちそうになり、負傷したかを尋ねられたときに、「そうだ。重傷かもしれない」と答えた。ジョンストンは1837年に行った決闘で神経を犯されたか足の感覚が無くなっていたかであり、その結果として足に受けた傷の痛みを感知しなかった可能性がある<ref>[http://blueandgraytrail.com/event/Albert_Sidney_Johnston Albert Sidney Johnston biography on Georgia' Blue and Gray Trail website.]</ref>。ジョンストンは小さな峡谷に連れて行かれ、そこで数分の内に出血多量で死んだ。
 
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南軍の銃火がこの致命傷に繋がった可能性がある。この戦闘中に北軍の兵士がジョンストンの後方に回り込んだという形跡は無く、ジョンストンが兵士達の前面に出て指揮しているときに、多くの南軍兵士が北軍の前線に向かって発砲していたことが知られている。ジョンストンは南北戦争の両軍で戦死した最高位の軍人であり、その死は南軍の士気に大きな打撃となった。ジェファーソン・デイヴィスはジョンストンをこの国で最高の将軍と考えていた。このことはロバート・E・リーが南軍の傑出した将軍として登場する2ヶ月前のことだった。
 
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*[http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=4334 Albert Sidney Johnston at Find-A-Grave]
 
{{DEFAULTSORT:しよんすとん あるはとしとに}}
[[Category:南軍の将軍]]
[[Category:ケンタッキー州の人物]]