「ジョージ・プランタジネット (クラレンス公)」の版間の差分

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'''初代クラレンス公ジョージ・プランタジネット'''(George Plantagenet, 1st Duke of Clarence, [[1449年]][[10月21日]] - [[1478年]][[2月18日]])は、[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード・プランタジネット]]の六男。[[1461年]]、兄[[エドワード4世 (イングランド王)|エドワード4世]]の[[イングランド]]王位継承に貢献したことで[[クラレンス公]]に叙された。
 
エドワード4世の後見人[[ウォリック伯]][[リチャード・ネヴィル]]は、エドワード4世が[[エリザベス・ウッドヴィル]]と密かに結婚したころから、外交政策をめぐりエドワード4世と対立するようになった。[[1469年]][[7月11日]]、ウォリック伯は年長の娘[[イザベル・ネヴィル]]とジョージを結婚させてエドワード4世を牽制した。[[1470年]]、ウォリック伯はジョージを誘ってエドワード4世を討伐し、[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]を復位させた。
 
政権を掌握したウォリック伯は、年少の娘[[アン・ネヴィル]]をヘンリー6世の世嗣[[エドワード・オブ・ウェストミンスター|エドワード]]に嫁がせてネヴィル家の安泰を図った。1471年、王座への道を絶たれたジョージは弟グロスター公リチャード(後の[[リチャード3世 (イングランド王)|グロスター公リチャード3世]]の説得を受け入れ、3兄弟結束してウォリック伯を破って敗死させ、ヘンリー6世とエドワード王太子を殺害した。
 
[[1472年]]、王太子未亡人アン・ネヴィルが弟リチャードと結婚すると、ウォリック伯領の相続をめぐって兄弟は対立するようになった。妻イザベルが[[1476年]]に死んだことも災いしてジョージはウォリック伯領の相続争いに敗れ、エドワード4世への反逆を疑われ、[[ロンドン塔]]に送られて[[処刑]]された。