「宇留野義元」の版間の差分

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天文8年、義篤は[[下野国|下野]][[那須氏]]の[[那須政資]]、[[那須高資]]父子の抗争に介入したが、翌年に撤退する時に突然に部垂城を攻撃した。これは、城の大手門の橋の普請に不満を持つ義元に家臣の前で罵倒されたことを恨んだ家臣の大賀外記の讒言によるものといわれている。この時僅かに50名の城兵しかおらず、義元は養父の義久、与した小場義実らと自刃し落城した。嫡男竹寿丸は逃げることに成功するが落城前に裏切った黒沢大学に捕えられ斬殺された。この12年にも及ぶ兄弟の争いを'''部垂の乱'''、または部垂十二年の乱という。
 
義元に与した兄の[[佐竹永義]]や小場氏や前小屋氏らは許され、佐竹宗家の重臣となり、義元の家臣団は部垂衆として[[小場義忠]]の指揮下の小場寄騎衆に組み入れられ、[[慶長]]7年([[1602年]])、[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]の出羽への国替えで小場氏の拝領しが城代を勤めた大館城下に移った。
 
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