「ソロヴェツキー修道院」の版間の差分

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[[画像:Napadka.jpg|200px|thumb|right|クリミア戦争時、艦隊から砲撃を受ける修道院]]
 
ソロヴェツキー修道院は「ソロフキの[[クレムリ]]」(城塞)と呼ばれている。Sumskoyとケミの砦柵を合わせれば、ソロヴェツキー修道院は何ダースもの大砲と強力な駐屯部隊を持った国境に面した要塞に相当した。[[16世紀]]・[[17世紀]]には[[スウェーデン]]による数回の攻撃([[1571年]]、[[1582年]]、及び[[1611年]])を退け、[[クリミア戦争]]に際してはやってきた3挺の[[イングランド]]の軍艦が[[7月6日]]から[[7月7日|7日]]にかけ9時間に渡って修道院に砲撃を加えた挙げ句、得るところ無く退却に追い込まれている。[[16世紀]]から[[20世紀]]初頭にかけてはロシアの[[専制政治]]や[[正統教義]]に反対した者の[[流刑地]]および北ロシアにおけるキリスト教布教の拠点となっている。修道院は文書や古書の一大書庫も有している。
 
修道院内の庭園はエキゾチックな植物を有し、修道士達の誇るところとなっていた。その中にはチベットの高僧[[アグワン・ドルジェフ]]から贈られた[[チベット]]野生種の[[バラ]]も含まれる。
 
[[ロシア革命#十月革命(十一月革命)|十月革命]]の後、ソビエト当局はソロヴェツキー修道院を閉鎖し、ソロヴェツキー諸島に強制収容所と刑務所を設けた。刑務所では主に木の伐採が行われ、木を切り尽くしてしまうと刑務所は閉鎖された。この収容所での労働や拷問の凄惨な実態は、[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]の小説『[[収容所群島]]』に描かれている。

[[第二次世界大戦]]前には海軍士官学校が設置されている。
 
== 城の配置 ==
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今日では、ソロヴェツキー修道院は歴史および建築史の博物館としての役割を負っている。ロシア国内で最も早く[[ユネスコ世界遺産]]に登録された建造物でもある。修道院では修道士たちが宗徒の絆を取り戻しつつあり、現在約10名の修道士達が修道院で暮らしている。過去数年間で修道院は修復・補強されており、現在もそれは続いている。
 
== 関連項目 ==
*[[ロシア正教会]]