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'''斜線陣'''('''しゃせんじん'''、ロクセ・ファランクス、loxe phalanx、英:Echelon formation、梯形陣とも)は、[[古代ギリシア]]の戦法、[[陣形]]の一つである。
[[image:Battle_of_Leuctra.png|right|360px|thumb|レウクトラの戦い]]
'''斜線陣'''('''しゃせんじん'''、loxe phalanx、梯形陣とも)は、[[古代ギリシア]]の戦法、[[陣形]]の一つである。[[テーバイ]]の将軍[[エパメイノンダス]]が、[[レウクトラの戦い]]において、[[ファランクス]]を変形させ創作した陣形である。密集陣形の左側に主戦力を配置し、戦力の弱い右側へ行くに従って突撃を遅らせ、左側から敵陣を崩壊させる。
 
== 概要 ==
'''斜線陣'''('''しゃせんじん'''、loxe phalanx、梯形陣とも)は、[[古代ギリシア]]の戦法、[[陣形]]の一つである。[[テーバイ]]の将軍[[エパメイノンダス]]が、[[レウクトラの戦い]]において、[[ファランクス]]を変形させ創作した陣形である。密集陣形の左側に主戦力を配置し、戦力の弱い右側へ行くに従って突撃を遅らせ、左側から敵陣を崩壊させる。
 
この戦術においては兵力のバランス(主力翼に兵力を集中しすぎると敵戦列を突破する前に自軍の他の部隊が突破され、主力翼の兵力が不十分だと敵戦列を突破しきれない恐れがある)と突破のタイミングの正確な予測が必要となる。
 
== 実例 ==
[[image:Battle_of_Leuctra.png|right|360px|thumb|レウクトラの戦い]]
古代ギリシアでは、密集した[[重装歩兵]]が同時行進し、突撃攻撃するファランクスを用いた会戦方式が行われていた。ファランクスでは個々の兵士が左手に持つ[[盾]]がすぐ左に位置する兵士を半分覆うものとなっていたため、最も右の列の兵士は右側面が無防備であり、弱点となっていた。弱点をカバーするために、最も屈強な兵士を右側に配置することが伝統となっていた。
 
斜線陣は、敵のファランクスのこうした弱点を衝くため、自軍のファランクスにおける右翼への精鋭配置を覆し、左翼に兵力を集中させる戦法である。一層の弱点となる右翼の突撃開始を遅らせる事により、上空より見ると、陣形が斜線を描くようになり、斜線陣と呼ばれる。
 
[[レウクトラの戦い]]において、[[スパルタ]]を中心にした[[ペロポネソス同盟]]軍と対峙したエパメイノンダス率いるボイオティア軍は、斜線陣を採用し左翼へ兵力を集中させた。ファランクスでの一般戦列が8~16列であったのに対し、斜線陣左翼の厚みは50列あったとも言われる(それに対してレウクトラでのスパルタの戦列は12列であった)。ペロポネソス同盟軍は最精鋭のスパルタ軍が右翼を担っていたが、突撃を遅らせたボイオティア軍右翼がペロポネソス同盟軍左翼と激突する頃にはすでにペロポネソス同盟軍右翼は崩壊し、指揮官の[[スパルタ王]][[クレオンブロトス1世]]は敗死した。
 
その後、[[マンティネアの戦い (紀元前362年)|マンティネアの戦い]]でエパメイノンダスは戦死し、彼の[[戦闘教義]]を継承できるだけの人材はもはやテーバイにはおらず衰退したテーバイは衰退し、ギリシアの覇権を失ったが、斜線陣をはじめとする戦術は、その時テーバイへ人質として送られていた[[マケドニア王国]]の[[ピリッポス2世]](当時は王子)によって受け継がれた。そして、皮肉にもその戦術を改良した彼は[[カイロネイアの戦い]]で[[アテナイ]]・テーバイ連合軍を破り、ギリシアの覇権を手中に収めた。
 
[[Category:古代ギリシア|しやせんしん]]