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'''武田 元繁'''(たけだもとしげ、[[応仁]]元年([[1467年]]) - [[永正]]14年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1517年]][[11月11日]]))は日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将で、[[武田氏#安芸武田氏|安芸武田氏]]当主。[[武田元綱]]の嫡子。安芸の佐東・山県・安南の分郡守護。別名元重。子に[[武田光和]]。[[正室]]は大内氏養女である[[飛鳥井家|飛鳥井氏]]。後室は[[尼子久幸]]の女。
 
安芸武田氏は甲斐武田氏等と同族で、若狭武田氏の安芸分郡守護代として、安芸[[佐東銀山城|銀山城]]を拠点とした。
 
[[1493年]]、[[明応の政変]]が起き、[[管領]][[細川政元]]が[[室町幕府]][[将軍]][[足利義稙|足利義材]]を追放し、新将軍として[[足利義澄]]を擁立した。京を逐われた義は、数年間の流浪の末に[[大内義興]]を頼って[[山口]]に下向した。この政変の混乱に乗じて[[大内氏]]が武田領へ侵攻を開始した。家臣の[[温科国親]]の離反など武田家中は大混乱となり、[[熊谷膳直]]の働きで国親の反乱は鎮圧されたものの、元繁は大内氏に服属を余儀なくされた。
 
[[1508年]]、大内義興は足利義を奉じて上洛軍を起こし、武田元繁もこれに従い上洛した。一方、在京していた[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]当主[[武田元信]]は、足利義澄との密接な関係を維持した。これ以後、安芸武田氏は若狭武田氏から完全に独立することとなった。<br>
 
上洛した大内義興は、足利義材改め足利義稙を将軍職に復帰させると、管領代として京都に留まり、元繁もこれに従い駐留を続けることになった。<br>
 
[[1508年]]、大内義興は足利義稙を奉じて上洛軍を起こし、武田元繁もこれに従い上洛した。一方、在京していた[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]当主[[武田元信]]は、足利義澄との密接な関係を維持した。これ以後、安芸武田氏は若狭武田氏から完全に独立することとなった。<br>
上洛した大内義興は、足利義稙を将軍職に復帰させると、管領代として京都に留まり、元繁もこれに従い駐留を続けることになった。<br>
大内氏の当主と主力が不在の安芸国では、[[厳島神主家]]で後継者を巡って内訌が発生したため、大内義興は鎮圧のため元繁を帰国させた。元繁はこれを好機と見て、独立と勢力拡大を画策した。大内義興の養女である妻を離縁し、[[尼子経久]]の弟[[尼子久幸]]の娘を妻とすると、[[出雲国|出雲]][[尼子氏]]の支援を背景に大内氏を離反した。元繁は大内側の[[己斐城]]を攻撃するなど、安芸国内での勢力拡大を図った。
 
[[1516年]]毛利家当主[[毛利興元|興元]]が病死し、幼少の[[毛利幸松丸|幸松丸]]が跡を継ぐと、その動揺に乗じ大内方の毛利・吉川に占領されていた有田城を奪還するために行動を開始。[[1517年]]、有田城攻略の軍を起こした。
 
元繁は[[熊谷元直 (戦国時代)|熊谷元直]]に兵を与えて救援に来る毛利・吉川軍の迎撃に当たらせ、自分は主力を率いて有田城を攻撃した。熊谷元直軍は毛利・吉川連合軍と戦端を開くも、毛利氏当主の後見役であった[[毛利元就]]の見事な用兵により壊滅し、元直は討死した。敗戦の報に激昂した元繁は、自ら軍を率いて毛利・吉川連合軍を攻撃、優勢に戦を進めるも、又打川を渡る際に流れ矢に射抜かれ落馬、首を取られた。([[有田中井手の戦い]])。
元繁の討死により、武田家は光和が相続するが、この戦いを期に安芸武田氏は徐々に衰退し、数代後に強大化した[[毛利氏]]により滅亡させられることになる。
 
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{{先代次代|[[武田氏#安芸武田氏歴代当主|安芸武田氏当主]]|1505~15171505 - 1517|[[武田元綱]]|[[武田光和]]}}
 
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[[Category:安芸武田氏|もとしけ]]
[[Category:守護大名|たけたもとしけ]]
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