「メンシェヴィキ」の版間の差分

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[[10月25日]]にボリシェヴィキが中心となりペトログラード・ソヴィエトが[[ロシア臨時政府|臨時政府]]を倒した直後に開かれた会議上マルトフがボリシェヴィキの「純軍事陰謀」を非難し、それに対して[[レフ・トロツキー|トロツキー]]が'''''「君たちはあわれむべき、孤立した個人である。君たちは破産者だ。君たちの役割は終わった。君たちは今からは、歴史の掃きだめへゆけ」'''''と答え、メンシェヴィキたちは議決も待たずに退場する。
 
[[1918年]]1月の憲法制定議会では、ツェレテリがメンシェヴィキを擁護し、「後進国に社会主義経済を導入するという無政府的な企て」を論難した。一方、その年の5月にマルトフは、反革命にたいするボリシェヴィキの闘争に団結する、と宣言した。このように[[十月革命]]の正当性に関しても、メンシェヴィキの見解には統一がなかったのである。
 
[[1923年]]のマルトフの死とともに、残りの指導部の人々は次々とロシア国外へ亡命し、[[1921年]]に創刊されていた《社会主義・クーリエ》を機関紙として、[[1964年]]までアメリカにおける討論と宣伝を続けた。その編集の中心は[[フョードル・ダン]]と[[ラファイル・アブラモヴィッチ]]であった。ダンはメンシェヴィキの自己批判を展開し、レーニンをはじめとするボリシェヴィキが歴史の動向を正しくとらえていたことを認めた。