「ファイズッラ・ホジャエフ」の版間の差分

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[[1917年]]の[[2月革命 (1917年)|ロシア2月革命]]の勃発を受け、[[ブハラ・ハン国|ブハラ・アミール国]]君主の[[アーリム・ハーン]]は改革勅令を発布して、[[臨時政府 (ロシア)|ロシア臨時政府]]への恭順を示した。これを不十分とするホジャエフら青年ブハラ人グループは、ブハラにて反[[アミール]]の示威行動を行ったが、アミール当局の弾圧を受けて、ブハラに隣接するロシア[[租界]]([[カガン]]市)に亡命することとなった。
 
ホジャエフは、その後[[ボリシェヴィキ]]に接近し、[[ロシア十月革命|ロシア10月革命]]の勃発後には、[[タシケント]]のトルキスタン人民委員会議議長コレソフに対して、ブハラへの軍事介入を要請した。[[1918年]]3月に、コレソフ率いる[[赤軍]]部隊と青年ブハラ人勢力は、ブハラに侵攻してアミール政権の転覆を図ったが失敗。軍事クーデタに失敗したホジャエフはタシケントに亡命した。
 
ホジャエフは、タシケントで反アミール勢力の糾合に努め、[[1920年]]には、ブハラ共産党組織と、傘下の青年ブハラ人勢力の合同を行った。同年9月、青年ブハラ人勢力は赤軍と共にブハラ市に侵攻し、アミール政府を打倒、[[ブハラ人民ソビエト共和国]]を樹立した。ホジャエフは新政権の人民委員会議議長に選出された。