「レオーン6世」の版間の差分

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レオーンが復権した直後にバシレイオス1世が急死したため、その権力を継承した。彼はすぐに、当時[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノポリス総主教]]に復帰していたフォティオスを更迭し、弟のステファノスを総主教に任命した。
 
レオーン6世の治世は、前半はレオーンの復帰に尽力したステュリアノス・ザウツェスが実権を振るったとされている。彼はレオーンの愛人で後に二人目の妻となったゾエ・ザウツァイナの父親である。レオーンは後に彼にバシレオパトル(「皇帝の父」、あるいは「宮廷の長」の意味)の地位を創設して与えた。ただし最近の研究によると、ステュリアノス・ザウツェスの権力は、従来想定されていたほど強力なものではなかったようである。[[899年]]にステュリアノス・ザウツェスが没し、ザウツェス一族が失脚すると、それに代わってザウツェス一門の陰謀を通報した宦官のサモナスが実権を握った。彼は当時ビザンツ東ローマ軍で重きをなしていたアンドロニコス・ドゥークスと対立した。アンドロニコス・ドゥークスは[[バグダード]]に亡命したが、この事件にはサモナスが関与していたとされている。なおアンドロニコスの息子のコンスタンティノス・ドゥークスは後に復帰している。
 
レオーンはフォティオスを追放したものの、少年時代にその教えを受けて多方面に渡る学識を身につけており、たくさんの典礼詩や世俗詩、演説などを残した。また首都の商工業者の組合に関する法令集『総督の書』や6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]が編纂させた『[[ローマ法大全]]』のギリシャ語改訂版である『バシリカ法典』などの法律書の編纂をもさせている。