「国家安全保障会議 (トルコ)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Louperibot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 変更: tr:Millî Güvenlik Kurulu (Türkiye)
6行目:
国家安全保障会議の創設の契機となったのは、[[民主党_(トルコ)|民主党]]の[[アドナン・メンデレス|メンデレス]]政権を、当時の陸軍総司令官であった[[ジェマル・ギュルセル|ギュルセル]]大将が打倒した[[1960年]][[5月27日]]の軍事[[クーデター]]である。翌[[1961年]]に改正された憲法で、「政府に対して安全保障上の助言を与える機関」として国家安全保障会議の設置が規定され、民政移管後も文民政府に対して軍部が影響力を行使することが可能となった<small><ref>新井 pp.256-261. </ref></small>。
 
左右の政治対立が激化し、政治テロ事件が続発した[[1971年]]には、政府の対応を批判し、軍の政治介入を示唆する軍首脳の書簡が、大統領、上下両院議長に送付され、[[公正党]]の[[スュレイマン・デミレル|デミレル]]内閣が総辞職に追い込まれる「[[書簡によるクーデタ]]」事件が発生した。後任として発足した、[[ニハト・エリム|エリム]]を首班とする超党派内閣では、国家安全保障会議の権限強化や、政治犯を審理する国家保安裁判所({{lang|tr|Devlet Güvenlik Mahkemesi}})の設置を規定した憲法改正が行われた<small><ref>新井 pp.269-273. </ref></small>。
 
政権交代が頻繁に発生する不安定な政局が続いた[[1970年代]]後半には、[[キャスティング・ボート]]を握る[[国民救済党]]や[[民族主義者行動党]]などの宗教政党、極右政党が強い政治的影響力を行使し、[[インフレーション|インフレ]]や失業対策などの経済政策も停滞した。[[1980年]]には、任期満了を迎えた[[ファフリ・コルテュルク|コルテュルク]]大統領の後任を議会が選出できず、軍部は、これを政党政治の限界と捉えて、[[1980年]][[9月12日]]に、軍事クーデタを敢行した([[9月12日クーデター]])。公正党のデミレル政権を転覆した。公正党を含む全政党が解党処分となり、デミレル、[[共和人民党]]の[[ビュレント・エジェヴィト|エジェヴィト]]、[[国民救済党]]の[[ネジメッティン・エルバカン|エルバカン]]、[[民族主義者行動党]]の[[アルパルスラン・テュルケシ|テュルケシ]]ら主要政治家の公職追放が行われた。[[1982年]]の民政移管に合わせて公布された新憲法では、国家安全保障会議の権限が大幅に強化された<small><ref>新井 pp.283-285. </ref></small>。
 
[[1997年]]には、[[1995年]]の総選挙で政権与党となった[[イスラーム]]系政党の[[福祉党_(トルコ)|福祉党]]が、軍首脳らにより国家安全保障会議の席上で、国是である世俗主義原則に反するとして批判され、同党のエルバカン内閣が総辞職に追い込まれた。福祉党政権の崩壊後、軍部はメディアや司法機関を使った反福祉党キャンペーンを展開し、福祉党の解党処分、党首エルバカンの公職追放が行われた<small><ref>澤江 pp.172-176. </ref></small>。
30行目:
 
[[2001年]]には、[[民主左派党]]の[[ビュレント・エジェヴィト|エジェヴィト]]政権により、国家安全保障会議における文民の役割を強化する憲法改正が行われたほか、[[公正発展党]]の[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|エルドアン]]政権により、[[2003年]]に「第7次政策パッケージ」と呼ばれる一連の改革法案が[[トルコ大国民議会|議会]]に提出され、政軍関係の改革が行われた。同法案の成立により、月例で開催されてきた国家安全保障会議が隔月に変更とされたほか、同会議事務局長の選出を首相推薦とし、軍の影響力の削減が行われた<small><ref>トルコ共和国 法令2945号(国家安全保障会議及び国家安全保障会議事務局設置法)(2003年12月10日改正)[http://www.mevzuat.adalet.gov.tr/html/656.html]{{Tr icon}}(トルコ共和国司法省)</ref></small>
<small><ref>7. UYUM YASALARI [http://www.belgenet.com/yasa/ab_uyum7-1.html] {{Tr icon}}(belge.net)</ref></small>
 
また、[[2004年]]には、国家保安裁判所を廃止する憲法改正が行われたほか<small><ref>トルコ共和国 法令5170号(2004年5月7日)[http://www.tbmm.gov.tr/kanunlar/k5170.html]{{Tr icon}}(トルコ大国民議会)</ref></small>、「ラジオ・テレビ高等機構({{lang|tr|Radio ve Televizyon Üst Kurulu}})」、「高等教育機構({{lang|tr|Yüksek Öğretim Kurulu}})」に対する軍代表ポストが廃止され、司法、言論、教育の統制に軍が公式に関与できる領域は少なくなりつつある。
 
こうした状況に対して、[[2005年]]の[[欧州委員会]]の年次報告書は、「文民統制に向けた動きは進展しているものの、政府の政策に対する声明の発表を通して、軍は依然として政治に対して強い影響力を保持し続けている。」と指摘し、トルコに対してより一層の説明責任と政策の透明性確保を要求している<small><ref>European Commission p.41.</ref></small>。
56行目:
* [[トルコの政治]]
* [[トルコの軍事]]
* [[5月27日クーデター]]
* [[9月12日クーデター]]
 
{{DEFAULTSORT:こつかあんせんほしようかいき}}