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==乱の背景==
中世東アジアにおいて[[倭寇]](#前期倭寇)|前期倭寇]]と呼ばれる海上勢力が猛威を奮い、朝鮮王朝は討伐・懐柔・[[室町幕府]]への鎮圧要請など、様々な対応を余儀なくされる。朝鮮王朝は元来[[農本主義]]を国是としており、本来なら国内で産出しなすることの無い必要最小限の物資の入手を除けば外国との交易を必要としていなかった。しかし倭寇沈静化を図り、通交権をって西日本諸勢力から倭寇禁圧の協力を取りつけ、また倭寇自身を平和的通交者へと懐柔していった。特に対馬は倭寇の一大拠点と考えら目されており、対馬守護であった宗氏に対してもこうした協力要請がなされることとなり、宗氏もそれに応え[[日朝交易]]に積極的に参加をしていった。日朝交易において、朝鮮王朝建国当初入港場制限を行ってこく、通交者は任意の浦に入港することが可能であった。しかし各地の防備状況倭寇に漏れるのを恐れ、交易統制のためもあり、[[1407年]]、朝鮮王朝は[[興利倭船]](米、魚、塩など日常品の交易をする船)の入港場を[[釜山]]浦・薺浦(乃而浦とも、[[慶尚南道]]の[[鎮海市]])に入港場を制限し、1410年には[[使送船]](使節によこととな通交船)についても同様の措置が取られ<ref name="murai">(村井章介 1993)</ref>また[[1426年]]、対馬の有力者[[早田氏]]が慶尚道全域で任意に交易できるよう要求したのに対し、拒絶する代償として塩浦([[蔚山広域市]])も入港場に追加された。これら釜山浦・薺浦・塩浦を総称して[[倭館#三浦倭館|三浦]]と呼ぶ。
 
===交易の制限===
中世日朝交易は、通交使節による進上とその回賜、朝鮮王朝による公貿易、日朝双方の商人による私貿易の三つの形態が組み合わさったものであった<ref name="murai"/>。朝鮮王朝にとって公貿易は利益を産み出すものではなく、通交者国庫負担となっていた。また朝鮮国内における通交者の滞在・移動に関する・交易品の輸送も朝鮮側負担していたこともあり、日朝交易その様子[[朝鮮王朝実録]]大き「輸送品は道に連負担とり、倭人上京道路沿線住民は官吏・人民の区別く、夜昼を問わず交易品の運搬に駆り出され、妻子に至るもその苦役を受け、荷物の重さに耐えかね牛は道に斃れる。」<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_13708005_001&tabid=w 『中宗実録』巻九九、三七年八月壬午条 「沿路各官、人吏竝出、夜以繼晝、輸運之物、絡繹於道、至於妻子、徧受其苦、重載之牛、多斃路中。」]</ref>と記される有様であていた。日本経済の発達に伴い貿易量増大した結果、朝鮮王朝は国庫こうした負担の増加に耐えられなくなり、易の制限していくことを図るようになる。それに対し、対馬は山がちで耕地が少なく土地を通じた領国支配は困難であったため、宗氏は通交権益の[[知行]]化を通じて有力[[庶家]]の掌握、早田氏のような[[地侍]]の[[被官]]化を行い領国支配の要とを推進めていた([[宗氏領国]])<ref name ="araki">荒木和憲『中世対馬宗氏領国と朝鮮』 山川出版社、2007年</ref>。ま主家である[[小弐氏]]の敗勢により九州北部の所領を喪失しこう家臣に代替えとて通交権益を宛がう必要もあり、通交の拡大を望みこそすれ制限は受け入れられるものではなかった。そのため宗氏は様々な手段で通交の拡大を図り朝鮮王朝と軋轢を引き起こすことになる。三浦の乱直近の事例を見ると、[[1500年]]に朝鮮に訪れた宗氏の使者は11万5千[[斤]]の銅鉄を持ち込むが、朝鮮王朝は三分の一を買い取り残りを持ち帰らせる。2年後再度訪れた使者は残余の買い取りを迫るが、朝鮮王朝は価格を引き下げた上での三分の一の買い取りを提示し、交渉は物別れに終わる。翌々年再度交渉するが不調に終わる。資料が残っておらず結果は不明ながら、[[1508年]]にも再度同様の交渉が行われている。こうした交易の制限をめぐる軋轢により、宗氏は不満を募らせ、三浦の乱発生の一因となる<ref name="murai"/>
 
[[1943年]]、朝鮮王朝は[[嘉吉条約]]により対馬から朝鮮に通交する[[歳遣船]](毎年派遣される使送船)の上限を年間50隻に制限する。それに対し宗氏は[[特送船]](緊急の用事で送る使送船)を歳遣船の定数外とし、島主歳遣船(宗氏本宗家名義の歳遣船)とは別に有力庶家名義の歳遣船を定約し、また島主歳遣船の上限を引き上げるよう要求するが、これは朝鮮王朝から拒絶されている。さらに、歳遣船の制限の外である対馬島外勢力、あるいは実在しない勢力名を騙った新たな通交者の[[偽使]]を仕立て上げ、通交の拡大を図った。当時の日朝貿易における日本側の輸出品は[[胡椒]]・[[丹木]]・[[朱紅]]・銅・金等であり、朝鮮側の輸出品は[[綿布]]であった。朝鮮王朝は綿布の国庫備蓄が底をつくことを恐れ、[[1488年]]に綿布の交換レートの引き上げを行い、[[1494年]]には金・朱紅の公貿易禁止、[[1498年]]には銅の公貿易も禁止する。それに対し宗氏は、それまでは外交交渉のため使用していた特送船を使って銅の輸出を図る。[[1500年]]に朝鮮に訪れた宗氏の使者は11万5千[[斤]]の銅を持ち込むが、朝鮮王朝は三分の一を買い取り残りを持ち帰らせる。2年後再度訪れた使者は残余の買い取りを迫るが、朝鮮王朝は綿布の交換レートを引き上げた上での三分の一の買い取りを提示し、交渉は物別れに終わる。翌々年再度交渉するが不調に終わる。資料が残っておらず結果は不明ながら、[[1508年]]にも再度同様の交渉が行われている。こうした大量の銅は、宗氏が新たに入手したものではなく、朝鮮王朝が交易の制限を強化していく中、対馬・博多において大量に過剰在庫となって溜まっていたものと考えられる<ref name="araki"/>。こうした交易の制限を巡る軋轢が繰返される中、宗氏は不満を募らせ、三浦の乱の一因となっていく<ref name="murai"/><ref name="araki"/>。
===恒居倭===
 
朝鮮王朝の当初の目論見では三浦は入港場にすぎず、日本人の定住は想定していなかった。しかし対馬は土地が痩せていたため、交易従事者のみならず朝鮮半島に定住する日本人(恒居倭)が出現する。彼らは[[倭館]]の関限を超えて居住し、田地を購入して耕作、朝鮮半島沿岸での漁、密貿易など様々な活動を行った。朝鮮王朝は恒居倭の倭寇化を恐れ、検断権・徴税権といった行政権を行使できず、日本人有力者による自治に任せるままであった
===恒居倭の増加===
朝鮮王朝の当初の目論見では三浦は入港場にすぎず、日本人の定住は想定していなかった。しかし対馬は土地が痩せていたため島内で過剰人口を吸収できず、交易従事者のみならず朝鮮半島三浦に定住する日本人(恒居倭)が出現する。彼らは[[倭館]]の関限を超えて居住し、田地を購入して耕作、朝鮮半島沿岸での漁、密貿易など様々な活動を行った。朝鮮王朝は恒居倭の倭寇化を恐れ、検断権(警察・司法権)・徴税権といった行政権を行使できず、日本人有力者による自治に任せるままであった
<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_11008013_007&tabid=w 『世宗実録』巻四一、一〇年八月壬辰条]、[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wja_10603005_001&tabid=w 『燕山君日記』巻三七、六年三月己未条]より、朝鮮王朝が検断権放棄をしていたことが窺える。(村井章介 1993)</ref>
<ref name="maki43">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_11103020_002&tabid=w 『世宗実録』巻四三、一一年三月丙寅条]
及び[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_11103022_002&tabid=w 戊辰条]
より、1429年当時恒居倭の徴税権は宗氏ではなく早田氏が把握していたこと、朝鮮王朝は恒居倭に対し営業税の課税を検討したが、既に早田氏が課税しているため実行は困難と判断し中止したことが示されている。(関周一 2002)</ref>
<ref name="maki87">[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wia_10812006_001&tabid=w 『成宗実録』巻八七、八年一二月己亥条]において恒居倭へ田租の課税を検討するが、倭寇の再発を憂慮し中止する様が読み取記さている。またその際、恒居倭の免税特権を悪用した朝鮮人の納税回避の危険性が指摘されるが、[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wia_10902028_008&tabid=w 『成宗実録』巻八九、九年二月辛酉条]においてその危惧が現実の物となったことが示されている。(村井章介 1993)</ref>。
朝鮮王朝は恒居倭の増加を危惧し、宗氏に恒居倭を送還するよう度々要請を行なう。宗氏は当初恒居倭を掌握しておらず、自身の支配下にある対馬への送還に熱心であった<ref name="maki43" />。しかし[[1436年]]の送還により三浦から宗氏の影響支配下にない者達が一掃され、以降三浦は宗氏の派遣する[[三浦代官]]の支配するところとなる。その結果宗氏は恒居倭の送還に消極的になり、三浦人口は1436年の206人から[[15世紀1466年]]半ばおける約1500人から15世紀末の約3000は1650余、[[1494年]]は3105人まで増することになる<ref name="murai">(村井章介 1993)</ref>。
 
こうした恒居倭の増加に伴い、様々な問題が引き起こされる。
*恒居倭による、孤草島釣魚禁約<ref>朝鮮王朝と宗氏の間で恒居倭人の漁場を定めた条約</ref>の域を超えての漁場の占拠
:宗氏と朝鮮王朝の間では[[孤草島釣魚禁約]]をもって朝鮮沿岸における日本人の漁場が制限されていた。しかし恒居倭の中には定められた領域を超えて密漁を行い、あまつさえ漁場を占拠する者が出現する。
*恒居倭の海賊化<ref>『成宗実録』巻二四七、二一年一一月辛巳条</ref>
*恒居倭の倭寇化
*密貿易が恒常化し、朝鮮王朝高官の中にさえ密貿易へ関与する者の出現<ref name="murai"/>
*恒居:三浦を拠点にの海賊化寇を働く者も出現する<ref>『成宗実録』巻二四七、二一年一一月辛巳条</ref>
*田の名義人を日本人に書き換えることで田租の納税回避を行う朝鮮人の出現<ref name="maki87" />
*密貿易の恒常化及び恒居倭と朝鮮人の癒着
*倭寇の活動に触発され、倭人を装った朝鮮人[[水賊]]の活発化<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wia_10302027_004&tabid=w 『成宗実録』巻一五、三年二月甲午条]及び[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wia_11903002_001&tabid=w 『成宗実録』巻二一四、一九年三月丙寅条]に、朝鮮人水賊が倭人を装って活動していたことが窺える。また水賊の活発化は倭人の活動に刺激されたものだとしている。(関周一 2002)</ref>
:密貿易が恒常化し恒居倭と朝鮮人との間に癒着が進行する。朝鮮側における密貿易の担い手は三浦周辺住民・地元商人・[[漢城]]大商であったが、中でも三浦周辺住民と恒居倭の癒着ぶりは「相親相愛、ただ兄弟の如くあるのみならず、言語飮食、利害緩急、之を共にせざるは無し」<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_10403024_002&tabid=w 『中宗実録』巻八、四年三月丙辰条 「相親相愛, 不啻如兄弟, 言語飮食, 利害緩急, 無不共之。」]</ref>と描写される有様であった。さらに三浦周辺の地方官吏や[[辺将]](朝鮮王朝の地方武官)に止まらず朝鮮王朝中央高官の中にさえ、商人に便宜を図り密貿易に関与する者が出現する<ref name="murai"/>。
などの問題が顕在化することになる。
*朝鮮人の納税回避
*田:三浦周辺住民中には田畑を恒居倭に売却したことにし、名義人を日本人に書き換えることで田租の納税回避を行う朝鮮人の者が出現する<ref name="maki87" />
*朝鮮人[[水賊]]の活発化
*:倭寇の活動に触発され、倭人を装った朝鮮人[[水賊]]の活動が活発化する<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wia_10302027_004&tabid=w 『成宗実録』巻一五、三年二月甲午条]及び[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wia_11903002_001&tabid=w 『成宗実録』巻二一四、一九年三月丙寅条]に、朝鮮人水賊が倭人を装って活動していたことが窺える。また水賊の活発化は倭人の活動に刺激されたものだとしている。(関周一 2002)</ref>。朝鮮人水賊の活動は1470年代から活性化するものであったが、彼等は倭服を着て倭語を話し、いずれが倭寇かいずれが朝鮮人水賊か識別を付けるのは困難であった。
朝鮮王朝はこうした三浦の状況に対し、「譬えるなら、腫瘍が腹に出来、すぐにでも崩れそうな状況」<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wja_10903025_003&tabid=w 『燕山君日記』巻四九、九年三月壬辰条 「譬猶癰疽結腹, 潰亂無日」]</ref>と危機感を募らせていく。
 
15世紀末、こうした事態に耐えかねた朝鮮王朝は恒居倭に対し強硬姿勢に転ずる。[[辺将]]による納税の論告を行い、三浦代官の協力を得た上ながら海賊行為を働いた者を捕らえ処刑するなど、それまで恒居倭に対し行えなかった検断権・徴税権行使を試みるようになる。また三浦の辺将に中央高官を任命し厳重な取締りを行わせた。こうした中、恒居倭に対し厳重な取り締まりを行っていた辺将により、朝鮮人か恒居倭か正体不明な海賊を恒居倭だと決め付け、見せしめに倭館の前に首を晒す、あるいは無実の日本人が海賊と間違われて斬られる、といった事件が起こり日本人の不満は爆発する。
 
==乱の展開==
1510年4月4日、対馬から[[宗盛親]]率いる援軍を加えた恒居倭は、約4500の兵力をもって三浦の乱を起こす。彼らの目的は、強硬な取締りを行った辺将を討取り、朝鮮王朝の行なった交易の制限、恒居倭に対する検断権・徴税権の行使といった倭人抑圧政策の変更を迫る事にあった。この反乱には、伊集院氏名義の使船の乗組員が、出港を遅延させて乱の勃発を待ち受け、反乱に参加している。この使船は、実際は宗氏が運用していたものであり、このこと等うした事などから三浦の乱は宗氏主導で計画的に起こされたものであることが伺い知れる<ref name="naga">長節子『中世国境海域の倭と朝鮮』吉川弘文館、2002年</ref>。彼らの目的は、強硬な取締りを行った辺将を討取り、朝鮮王朝の行なった貿易額の削減、検断権・徴税権の行使といった倭人抑圧政策の変更を迫る事にあった
 
倭軍は釜山浦・薺浦の僉使営を陥落させ、釜山浦では辺将を討取り、薺浦では生け捕りにする。さらに釜山浦から東萊城、薺浦から熊川城へ攻め進むが反撃に会い攻撃は頓挫する。
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==乱の顛末==
この事件により日朝の国交は断絶状態となる。これは宗氏以外の全ての[[受職人]](朝鮮王朝から官位を貰っている者)・[[受図書人]](通交許可を受けている者)に対しても同様であった。しかしながら、交易で生計を立てている対馬と、[[胡椒]][[丹木]]・銅などの輸入を対馬に全面的に依存している朝鮮王朝の双方は折り合いを付ける必要に迫られ、[[1512年]]、[[壬申約条]]により和解が成立した。これにより交易は再開され倭館も再び開かれた。しかし、入港地は薺浦のみに制限され、歳遣船は半減、特送船の廃止、日本人の駐留の禁止、受職人・受図書人も再審査を受けるなど、通交は以前より制限されたものになる。また、暴動対策のため[[備辺司]]が設置されることになる。その後、薺浦一港での入港受入れは難しいとの理由から釜山浦も再び開かれるが、[[1544年]]に[[蛇梁倭変]]が起こり再び国交は断絶する。[[1547年]]の[[丁未条約]]を以って交易が再開されるが入港地は釜山浦一港に制限され、これが近代倭館へと続いていくことになる。宗氏にとって三浦の喪失と通交の制限は大きな痛手であり、[[日本国王]]使の[[偽使]]の派遣、通交権の対馬集中といった方策を持って三浦の乱による損失の穴埋めを図ることになる。
 
===偽使の派遣===
宗氏にとって三浦の喪失と通交の制限は大きな痛手であり、損失の穴埋めに[[日本国王]]使の[[偽使]]の派遣、通交権の対馬集中を行うことになる。
壬申約条において通交に制限を加えられたのは、宗氏のように朝鮮王朝にとって[[陪臣]]に当たる者達であり、朝鮮王朝と同格である日本国王(室町幕府)の使節の通交を制限するものではなかった。宗氏はこの点に着目し、日本国王使の偽使を仕立て上げ通交を行うことになる。偽使の派遣は三浦の乱以前にも行われていたが、三浦の乱をきっかけに本格化することになる。また交易目的だけではなく、三浦の乱や蛇梁倭変の講和のような重要な交渉時にも、有利な交渉を目論み偽の日本国王使を派遣して交渉に臨んでいる。こうした結果、三浦の乱後の1511~1581年までの間、日本国王使は二十二回通交することになるがその中で本物の日本国王使は二回に過ぎず、残りの二十回は宗氏の仕立て上げた偽使であった<ref name="murai"/>。この偽使の派遣により、壬申約条による交易の制限は事実上有名無実化されることになる<ref name="murai"/><ref name="araki"/>。また、日本国王使の派遣には朝鮮王朝が室町幕府に発行する[[象牙符]]が必要であった。象牙符は[[大友氏]]と[[大内氏]]が所持するものであり、偽の日本国王使の派遣には大友氏、大内氏の協力が欠かせず、宗氏は両氏との関係の緊密化に腐心することになる。
 
===通交権の対馬集中===
壬申約条において通交に制限を加えられたのは、宗氏のように朝鮮王朝にとって[[陪臣]]に当たる者達であり、朝鮮王朝と同格である日本国王(室町幕府)の使節の通交を制限するものではなかった。宗氏はこの点に着目し、日本国王使の偽使を仕立て上げ通交を行うことになる。偽使の派遣は三浦の乱以前にも行われていたが、三浦の乱をきっかけに本格化することになる。また、三浦の乱や蛇梁倭変の講和のような重要な交渉時にも、偽の日本国王使を派遣して交渉に臨んでいる。こうした結果、三浦の乱後の1511~1581年までの間、日本国王使は二十二回通交することになるが、その中で本物の日本国王使は二回に過ぎず、残りの二十回は宗氏の仕立て上げた偽使であった。この偽使の派遣により、壬申約条による交易の制限は事実上有名無実化されることになる<ref name="murai"/>。また、日本国王使の派遣には朝鮮王朝が室町幕府に発行する[[象牙符]]が必要であった。象牙符は[[大友氏]]と[[大内氏]]が所持するものであり、偽の日本国王使の派遣には大友氏、大内氏の協力が欠かせず、宗氏は両氏との関係の緊密化に腐心することになる。
三浦の乱以前には、九州・中国地方の諸勢力も朝鮮王朝から図書を受け通交していたが、三浦の乱を境に通交権は宗氏に集中し、日朝貿易の独占が行われるようになる。ただし、宗氏による通交権の集中は三浦の乱以前から行われていた可能性も指摘されている<ref name="naga"/>。こうして日朝交易から締め出された勢力の一部は明人海商と結びつき、[[倭寇#後期倭寇|後期倭寇]]の一役を担うようになる。後期倭寇は主に明国沿岸部で活動したが、朝鮮半島沿岸部においても活発に活動襲撃し朝鮮王朝を苦ている。後期倭寇はそれまでの倭寇と違い通交権を盾にした統制の効かない相手であり、朝鮮王朝は有効な対策を打ち出せないまま、[[1588年]]の[[豊臣秀吉]]の[[海賊停止令]]により倭寇が終息するまで苦しめられることになる。
 
三浦の乱以前には、九州・中国地方の諸勢力も朝鮮王朝から図書を受け通交していたが、三浦の乱を境に通交権は宗氏に集中し、日朝貿易の独占が行われるようになる。ただし、宗氏による通交権の集中は三浦の乱以前から行われていた可能性も指摘されている<ref name="naga"/>。こうして日朝交易から締め出された勢力の一部は明人海商と結びつき、[[倭寇#後期倭寇|後期倭寇]]の一役を担うようになる。後期倭寇は主に明国沿岸部で活動したが、朝鮮半島沿岸部においても活発に活動している。後期倭寇はそれまでの倭寇と違い通交権を盾にした統制の効かない相手であり、朝鮮王朝は有効な対策を打ち出せないまま、[[1588年]]の豊臣秀吉の[[海賊停止令]]により倭寇が終息するまで苦しめられることになる。
 
==脚注==
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*関周一 『中世日朝海域史の研究』 吉川弘文館、2002年 <code>ISBN 978-4642028158</code>
 
== 関連項目 ==
*[[倭]]
*[[宗氏]]
*[[倭館]]
*[[朝鮮王朝]]
 
{{DEFAULTSORT:さんほのらん}}
[[category:1510年]]
[[category:室町時代の外交]]
[[category:戦国時代 (日本)]]