「三浦の乱」の版間の差分

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===交易の制限===
中世日朝交易は、通交使節による進上とその回賜、朝鮮王朝による公貿易、日朝双方の商人による私貿易の三つの形態が組み合わさったものであった<ref name="murai"/>。朝鮮王朝にとって公貿易は利益を産み出すものではなく国庫の負担となっていた。また朝鮮国内における通交者の滞在費・交易品の輸送も朝鮮側の負担であり、その様子は[[朝鮮王朝実録]]に「輸送品は道に連なり、倭人上京道路沿線住民は官吏・人民の区別なく、夜昼を問わず交易品の運搬に駆り出され、妻子に至るもその苦役を受け、荷物の重さに耐えかね牛は道に斃れる。」<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wka_13708005_001&tabid=w 『中宗実録』巻九九、三七年八月壬午条 「沿路各官、人吏竝出、夜以繼晝、輸運之物、絡繹於道、至於妻子、徧受其苦、重載之牛、多斃路中。」]</ref>と記される有様であった。日本経済の発達に伴い交易量が増大した結果、朝鮮王朝はこうした負担に耐えられなくなり、交易の制限を図るようになる。それに対し、対馬は山がちで耕地が少なく土地を通じた領国支配は困難であったため、宗氏は通交権益の[[知行]]化を通じて有力[[庶家]]の掌握、早田氏のような[[地侍]]の[[被官]]化を行い、領国支配を推し進めていた([[宗氏領国]])<ref name ="araki">荒木和憲『中世対馬宗氏領国と朝鮮』 山川出版社、2007年</ref>。また主家である[[弐氏]]の敗勢により九州北部の所領を喪失し、家臣に代替えとして通交権益を宛がう必要もあり、通交の拡大を望みこそすれ制限は受け入れられるものではなかった。そのため、宗氏は様々な手段で通交の拡大を図り、朝鮮王朝と軋轢を引き起こすことになる。
 
[[1943年]]、朝鮮王朝は[[嘉吉条約]]により対馬から朝鮮に通交する[[歳遣船]](毎年派遣される使送船)の上限を年間50隻に制限する。それに対し宗氏は[[特送船]](緊急の用事で送る使送船)を歳遣船の定数外とし、島主歳遣船(宗氏本宗家名義の歳遣船)とは別に有力庶家名義の歳遣船を定約し、また島主歳遣船の上限を引き上げるよう要求するが、これは朝鮮王朝から拒絶されている。さらに、歳遣船の制限の外である対馬島外勢力、あるいは実在しない勢力名を騙った新たな通交者の[[偽使]]を仕立て上げ、通交の拡大を図った。当時の日朝貿易における日本側の輸出品は[[胡椒]]・[[丹木]]・[[朱紅]]・銅・金等であり、朝鮮側の輸出品は[[綿布]]であった。朝鮮王朝は綿布の国庫備蓄が底をつくことを恐れ、[[1488年]]に綿布の交換レートの引き上げを行い、[[1494年]]には金・朱紅の公貿易禁止、[[1498年]]には銅の公貿易も禁止する。それに対し宗氏は、それまでは外交交渉のため使用していた特送船を使って銅の輸出を図る。[[1500年]]に朝鮮に訪れた宗氏の使者は11万5千[[斤]]の銅を持ち込むが、朝鮮王朝は三分の一を買い取り残りを持ち帰らせる。2年後再度訪れた使者は残余の買い取りを迫るが、朝鮮王朝は綿布の交換レートを引き上げた上での三分の一の買い取りを提示し、交渉は物別れに終わる。翌々年再度交渉するが不調に終わる。資料が残っておらず結果は不明ながら、[[1508年]]にも再度同様の交渉が行われている。こうした大量の銅は、宗氏が新たに入手したものではなく、朝鮮王朝が交易の制限を強化していく中、対馬・博多において大量に過剰在庫となって溜まっていたものと考えられる<ref name="araki"/>。こうした交易の制限を巡る軋轢が繰返される中、宗氏は不満を募らせ、三浦の乱の一因となっていく<ref name="murai"/><ref name="araki"/>。
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:三浦周辺住民の中には田畑を恒居倭に売却したことにし、名義人を日本人に書き換えることで田租の納税回避を行う者が出現する<ref name="maki87" />。
*朝鮮人[[水賊]]の活発化
:倭寇の活動に触発され、倭人を装った朝鮮人[[水賊]]の活動が活発化する<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wia_10302027_004&tabid=w 『成宗実録』巻一五、三年二月甲午条]及び[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wia_11903002_001&tabid=w 『成宗実録』巻二一四、一九年三月丙寅条]に、朝鮮人水賊が倭人を装って活動していたことが窺える。また水賊の活発化は倭人の活動に刺激されたものだとしている。(関周一 2002)</ref>。朝鮮人水賊の活動は1470年代から活性化するものであったが、彼等は倭服を着て倭語を話し、いずれが倭寇かいずれが朝鮮人水賊か識別を付けるのは困難であった。
朝鮮王朝はこうした三浦の状況に対し、「譬えるなら、腫瘍が腹に出来、すぐにでも崩れそうな状況」<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wja_10903025_003&tabid=w 『燕山君日記』巻四九、九年三月壬辰条 「譬猶癰疽結腹, 潰亂無日」]</ref>と危機感を募らせていく。