「クシシュトフ・ラジヴィウ・ピョルン」の版間の差分

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|'''没地''' || [[ウォソシュナ]]
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'''クシシュトフ・ミコワイ・ラジヴィウ公爵'''([[ポーランド語]]表記:Krzysztof Mikołaj Radziwiłł Piorun / [[リトアニア語]]表記:Kristupas Radvila Mikalojus Perkūnas,[[1547年]] – [[1603年]][[11月20日]])は、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の貴族([[シュラフタ]])、[[神聖ローマ帝国]]の諸侯([[フュルスト]])。「'''ピョルン'''」は[[雷電]]、[[落雷]]を意味する異称。
 
== 生涯 ==
1569年からリトアニア大公付き[[ポドチャシィ]](副[[酒杯持ち]])、1572年からリトアニア野戦[[ヘトマン]]、1579年から[[トラカイ]][[城伯]]および[[カンツレルツ|リトアニア大法官代理]]、1584年から[[ヴィリニュス県]]の[[ヴォイェヴォダ]](知事)、1589年からリトアニア大ヘトマンを務めた。また多くの地域の[[スタロスタ|王領地代官]]でもあった。クシシュトフは[[ポーランド・リトアニア共和国]]の[[モスクワ国家]]や[[スウェーデン]]との戦役において最も有能な軍司令官として活躍し、[[コケンハウゼンの戦い]]をポーランド側の勝利に導いた。彼は獲得した権力を、自身が多くのヴォイェヴォダやスタロスタの官職を得る力添えをしてくれた[[ラジヴィウ家]]のメンバー達と共有し、一族の繁栄のために尽くした。父や兄弟たちと同じく、彼は熱心な[[カルヴァン派]]であり、[[対抗宗教改革]]に圧迫されつつあった[[ポーランド改革派教会]]の強力な庇護者となった。
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{{People-stub}}
[[Category:ポーランドのカルヴァン主義者]]
[[Category:ポーランドの貴族]]
[[Category:リトアニアの貴族]]
[[Category:ヘトマン]]
[[Category:ラジヴィウ家|くししゆとふ ぴよるん]]