「縄文人」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
82行目:
 
===縄文人の用いた舟艇===
これまでに出土した事例に見る限り、縄文人が航海に用いたのは一本の材木丸太を刳り抜いた[[丸木舟]]であったと考えられている<ref>堤隆は旧石器時代の神津島での黒曜石採取については、丸木舟を建造出来るような石器が存在しなかったことから考えて、[[カヤック]]のような[[スキンボート]]を使用したのではないかと指摘している(堤隆『黒曜石3万年の旅』NHKブックス、2004年、93ページ)</ref>。帆柱の跡やオール受けの跡は検出されていないため、(カイトセイリングのように帆柱を用いない形式での帆走を行った可能性は否定出来ないまでも)基本的にはパドリングによる推進であった可能性が高い。
 
船体の断面は関東地方出土の丸木舟を見る限りでは半月型<ref>ほとんど舷側が無い、サーフィンのロングボードに近いもの。例えば[[さいたま市]]の膝子遺跡出土の縄文後期と推測される丸木舟群の中には、残存長4.2メートル、残存幅45センチで舷側が殆ど無いものが含まれている(橋口、前掲書、161-162ページ)。</ref>あるいは三日月型であり、弥生時代以降の凹型断面の丸木舟とは異なる特徴を示している。船体長は最大で残存長7メートルから8メートルのものまであるが(例えば千葉県[[香取郡]][[多古町]]島(七升出土の縄文期のものは残存長7.45メートル、残存幅0.7メートル)、小さいものでは4メートル以下のものも多数出土している。
 
材は[[アカマツ]][[クロマツ]][[カラマツ]][[カヤ]][[ケヤキ]][[ムクノキ]][[クスノキ]]などの例がある<ref>本節の典拠は橋口、前掲書、158-172ページ</ref>。
 
なお、1982年には[[松江市]]内の小中学校の教師の有志5名により、「[[からむしII世]]」と名付けられた丸木舟による[[黒曜石]]の運搬実験が行われ、[[隠岐諸島|隠岐]]の[[宮尾遺跡 (隠岐の島町)|宮尾遺跡]]から[[本州]]の松江市美保関町の[[七類]]港まで15キロの黒曜石を1日で運搬することに成功している<ref>堤隆『黒曜石3万年の旅』NHKブックス、2004年、96-97ページ</ref>。
 
==注==